城東重伝建地区ガイド......津山城東地区
宮川大橋より以東、北は丹後山南は吉井川に固まれた地域は古代より林田郷と呼ばれ、中世の頃には林田宿としづ吉井川の高瀬舟の集積地として、市場集落が出来て城西地区の冨川宿と共に栄えた地域です。
1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの3年後、美濃出身の森忠政が186500石をもって美作に入封、13年かけて城づくりと共に町づくりが行われました。
北の高台に武家屋敷、丹後山山麓に寺社、南の吉井川に沿った平地に町家を配置しました。
町家の特徴
宮川大橋より出雲街道に沿って橋本町、林田町、勝間田町、中之町、西新町、東新町まで1.2K、元禄年間(1645〜1703)には約280軒あり、商人と職人の町です。
日常生活に欠かせないものはなんでもあり、城下の台所の役目と共に宿場機能もあり大いに栄えたといわれています。
家の間口は75%間以下(元禄期)、かいどう奥行きは17間で基本的に統一されてお400年経った今も町割りは見事に残されています。
@「っし二階Jと呼ばれる軒の低い中二階の家が多い。
A切妻の面が接した長屋形式である。
街道の南側の家は左側が通り庭式の土間となっており、北側の家は右側が同様の形式となっています。このことは基本的に1階の住居部分は隣と接しないプライパシーに配慮されていることになります。
B「平入り」の形式である。
その他なまこ壁、出格子、平格子、あらし窓、虫籍窓、「うだっjの一種ともいえる袖壁などの特徴的な家が多く残っています。
このように城東地区の町家は400年前の都市計画がよく残され、多くの小路もそのままに絵図を見ながら迷わず歩けるという他の城下町にない貴重な遺産と言えます。
この城東地区(8.1ha)は平成元年岡山県の町並み保存地区(県内7か所)の指定を受けましたが、2015年(平成25)国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の選定をうけました。全国で104番目、商家町としては14番目です。
この選定基準は3段階のなかで(1)の「全体として意匠的に優秀ものj としての評価です。
阿国家住宅(苅田酒造)......旧苅田邸
苅田家の先祖は戦国時代備前の宇喜多直家に仕え、宮口城、高尾城の城持ち武将です。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、武士をやめ勝北郡勝間田村植月(現在の勝北町)に移り住みました。
1622年(元和8)に津山に移住初代の苅田与三衛門正丹は勝間田町の地でおもに問屋業を営み、その後1758年(宝暦8)の治七郎の時から酒造業を始めました。
また分家が近辺で「醤油苅田Jr肥料苅田Jr足袋苅田Jr茶苅田j などと言われる大きな商いをし、勝間田町は別名苅田町とも言われました。酒造業は平成25年まで260年近く続きました。現在は17代目です。
建物の特徴として間口17間(約30m)敷地面積約3000平方メートル(900坪)床面積(2080平方メートル)あり3階建ての望楼をはじめ酒造場,仕込み蔵,瓶詰め場など8棟あり、「つし二階j、そしてなまこ壁、出格子、平格子、ささら下見など城東地区の商家の象徴的な建物として歴史的価値の高い家といえます。
2015年(平成25)住宅の土地、建物は市に寄付されました。そして平成28年に国の重要文化財の指定を受けました。これにより建物の修理など整備しで(3〜4年)一般公開される予定です。
また西側の棟続きの2軒は市が取得、ここにレストラン、物産販売、多目的スペース、トイレなど西地区の拠点として整備の計画となっています。
河野美術館......河野美術館
河野磐1920(大正7)〜2012(平成24) 922歳、この家は1899(明治32)頃、父親が医院を始め、その後兄が跡を継ぎ昭和の代まで続きました。
それ以前は旅館だったようです、河野先生は津山中学(現津山高)のあと昭和16年京都工芸高等学校(現京都工芸繊維大学)卒後、美作高等女子学校教諭となり、昭和23年中央画壇の東光会の公募展で初入選,奨励賞受賞する。戦後の学制改革により美作高校を退職。
1951(昭和26)退職、東京へ移住しフリーデザイナーとして生計を得る。
1968(昭和43)美作女子大教授、演劇に花を咲かせる。またヨーロッパへ4回訪問、ドイツベルリン展金賞、平成2年定年退職。東光会審査員2002(平成14)自宅に私設の美術館を開設する。
この家の西側併設部分は1918(大正7)築の診察室で中部も当時のままです。
作州城東屋敷......作州城東屋敷 ......城東むかし町歴史探訪
この屋敷は江戸期の商家を再現したもので、観光休憩、所として利用されています。また大広間がありあります。
1874(明治7)千光寺に津山で初めて日新小学校が開校のあと、この地に移転し30年続ました。また193I(昭和6)工芸専門学校、1935(昭和10)青年学校、1995(昭和25)には幼稚園が出来ました。この様にここは長く教育の場所としての変遷をたどりました。
1995(平成7)r男はつらいよ紅の花Jのロケ地になりました。
大広間は地元をはじめ、イベントなど多目的に日常的に利用されています。また襖絵は河野先生が描いたもので花の中に「かたつむりJが描かれています。どこに潜んでいるか探して見てください。
だんじり館
「津山だんじり」の歴史は初代藩主の森忠政が1604(慶長9)に総鎮守地区徳守神社を再興してまもなく始まったとされる祭礼である。
現在のだんじりに当たるものの記録では1668(寛文7)から見られ練り物(山車や行列)を出したとあります。
当初は「神輿太鼓Jからは発展し、幕末以降徐々に変化し担ぐから曳くという現在の形態が確立しました。現存するだんじりで最も古いものは宮脇町の「簾珠肇」で1820(文政3)に造られした。
大隅神社のだんじりは12台在り、内7台が県重要有形文化財です。このうち勝間田町、中之町、西新町、東新町の4台が展示されています。
徳守神社では24台の内県重文は20台です。高野神社は12台あります。
「津山まつりJは大隅神社が10月第3日曜日、徳守神社神社が10月第4日曜日、高野神社が10月22日の一番近い日となっており神輿と共にだんじりが出動します。
※中之町のだんじりには、担ぎ棒を通す金具がついています。
箕作院甫旧宅
箕作玩甫1799(寛政11〜1863 (文久3)65歳
箕作家の先祖は戦国時代には近江田(現東近江市五個荘町)の箕作城のお殿様で,織田信長と対峠していました。
大阪の陣で秀頼方につき敗れ、子孫の兄弟は母方をたよって美作国楢原上(美作市川こやって来て帰農、しかし弟の義林は津山藩(森長継)に仕官、そして津山藩士で、赤穂四十七士に加わった神崎与五郎の叔母と結婚、子の兄弟の内、兄の義は津山藩に仕官するも元禄10年森家改易となり江戸へ、弟の貞弁は西新町で医者を開業する。医者として津山箕作家の祖であり、院甫の曽祖父である。
院甫4歳の時、津山藩医の父親貞固をがなくなり,続いて兄亡くし12歳で家督を引き継ぐ。
母親の清子は備前塩田の郷土の出で教養が高いことから、周りの進めもあって津山藩(松平5代康哉)のお姫様の教育係りでお城に奥女中として上がった。
院甫は21歳で津山藩医となり、26歳の時江戸へ出て津山藩医の宇田川玄真に蘭学を学んだ。
院甫の業績
@翻訳家として著作を通じヨーロッパ文化の導入に貢献した。
医学、語学、歴史、地理、学、造船、宗教など広汎な分野に渡り99部、160冊余り出版しました。人間の背の高さにもなります。
A幕末の国際関係の緊迫していた時期に幕府の外交交渉に携わり活躍をしました。
1853 (嘉永6)アメリカ東インド艦隊司令官長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航した時、院甫と宇田川輿斉(4代)はアメリカ国書の翻訳を命じられました。その1ヶ月後ロシアの使節プチャーチンが長崎に渡来し、通商の開始と、千島、樺太の国境交渉を要求しました。この為幕府と長崎に同行、文書の翻訳にあたりました。
B子孫の一族、一円から日本の近代化に貢献した多くの学者が輩出しました。
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