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歴史と文化の城下町津山観光マイスター
観光施設バス研修会
日時:2017年2月12日(日) 13:00〜17:00 集合場所:津山市役所東駐車場13 :00 出発

★足跡を訪|東部コース
13:00 津山市役所東駐車場出発
13:05 衆楽園(30分) 13:35 (坂井)
13:50 中山神社(20分) 14:10 (小原)
美作国府跡(車内より) (藤木)
14:30 中之町バス停下車(パス城東観光駐車場待機)

★城東重伝建地区 (稲垣)
 14:35 苅田家住宅河野美術館(15分) 14:50
 14:55 城東屋敷だんじり館(20分) 15:15
 15:20 箕作院甫旧宅(15 分) 15:35
 15:40 津山洋学資料館前庭(10分) 15:50
 15:55 城東むかし町家(20分) 16:15 (城東観光駐車場)

 16:30 美作国分寺跡(20分) 16:50 (末漂)
 17:10 市駐車場帰着予定

-- 主催(公社)津山市観光協会 共催津山観光ボランティアガイドの会 --

◆ 2017 02/12(日) 動画

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衆楽園

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バス移動

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中山神社

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中山神社

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苅田酒蔵

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城東屋敷

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津山洋学資料館周辺

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旧梶村邸

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美作国分寺跡

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美作国分寺

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城東重伝建地区ガイド......津山城東地区
宮川大橋より以東、北は丹後山南は吉井川に固まれた地域は古代より林田郷と呼ばれ、中世の頃には林田宿としづ吉井川の高瀬舟の集積地として、市場集落が出来て城西地区の冨川宿と共に栄えた地域です。 1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの3年後、美濃出身の森忠政が186500石をもって美作に入封、13年かけて城づくりと共に町づくりが行われました。
北の高台に武家屋敷、丹後山山麓に寺社、南の吉井川に沿った平地に町家を配置しました。
町家の特徴
宮川大橋より出雲街道に沿って橋本町、林田町、勝間田町、中之町、西新町、東新町まで1.2K、元禄年間(1645〜1703)には約280軒あり、商人と職人の町です。
日常生活に欠かせないものはなんでもあり、城下の台所の役目と共に宿場機能もあり大いに栄えたといわれています。
家の間口は75%間以下(元禄期)、かいどう奥行きは17間で基本的に統一されてお400年経った今も町割りは見事に残されています。
@「っし二階Jと呼ばれる軒の低い中二階の家が多い。
A切妻の面が接した長屋形式である。
街道の南側の家は左側が通り庭式の土間となっており、北側の家は右側が同様の形式となっています。このことは基本的に1階の住居部分は隣と接しないプライパシーに配慮されていることになります。
B「平入り」の形式である。
その他なまこ壁、出格子、平格子、あらし窓、虫籍窓、「うだっjの一種ともいえる袖壁などの特徴的な家が多く残っています。
このように城東地区の町家は400年前の都市計画がよく残され、多くの小路もそのままに絵図を見ながら迷わず歩けるという他の城下町にない貴重な遺産と言えます。
この城東地区(8.1ha)は平成元年岡山県の町並み保存地区(県内7か所)の指定を受けましたが、2015年(平成25)国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)の選定をうけました。全国で104番目、商家町としては14番目です。
この選定基準は3段階のなかで(1)の「全体として意匠的に優秀ものj としての評価です。

阿国家住宅(苅田酒造)......旧苅田邸
苅田家の先祖は戦国時代備前の宇喜多直家に仕え、宮口城、高尾城の城持ち武将です。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、武士をやめ勝北郡勝間田村植月(現在の勝北町)に移り住みました。
1622年(元和8)に津山に移住初代の苅田与三衛門正丹は勝間田町の地でおもに問屋業を営み、その後1758年(宝暦8)の治七郎の時から酒造業を始めました。
また分家が近辺で「醤油苅田Jr肥料苅田Jr足袋苅田Jr茶苅田j などと言われる大きな商いをし、勝間田町は別名苅田町とも言われました。酒造業は平成25年まで260年近く続きました。現在は17代目です。
建物の特徴として間口17間(約30m)敷地面積約3000平方メートル(900坪)床面積(2080平方メートル)あり3階建ての望楼をはじめ酒造場,仕込み蔵,瓶詰め場など8棟あり、「つし二階j、そしてなまこ壁、出格子、平格子、ささら下見など城東地区の商家の象徴的な建物として歴史的価値の高い家といえます。
2015年(平成25)住宅の土地、建物は市に寄付されました。そして平成28年に国の重要文化財の指定を受けました。これにより建物の修理など整備しで(3〜4年)一般公開される予定です。
また西側の棟続きの2軒は市が取得、ここにレストラン、物産販売、多目的スペース、トイレなど西地区の拠点として整備の計画となっています。

河野美術館......河野美術館
河野磐1920(大正7)〜2012(平成24) 922歳、この家は1899(明治32)頃、父親が医院を始め、その後兄が跡を継ぎ昭和の代まで続きました。
それ以前は旅館だったようです、河野先生は津山中学(現津山高)のあと昭和16年京都工芸高等学校(現京都工芸繊維大学)卒後、美作高等女子学校教諭となり、昭和23年中央画壇の東光会の公募展で初入選,奨励賞受賞する。戦後の学制改革により美作高校を退職。
1951(昭和26)退職、東京へ移住しフリーデザイナーとして生計を得る。
1968(昭和43)美作女子大教授、演劇に花を咲かせる。またヨーロッパへ4回訪問、ドイツベルリン展金賞、平成2年定年退職。東光会審査員2002(平成14)自宅に私設の美術館を開設する。
この家の西側併設部分は1918(大正7)築の診察室で中部も当時のままです。

作州城東屋敷......作州城東屋敷  ......城東むかし町歴史探訪

この屋敷は江戸期の商家を再現したもので、観光休憩、所として利用されています。また大広間がありあります。
1874(明治7)千光寺に津山で初めて日新小学校が開校のあと、この地に移転し30年続ました。また193I(昭和6)工芸専門学校、1935(昭和10)青年学校、1995(昭和25)には幼稚園が出来ました。この様にここは長く教育の場所としての変遷をたどりました。
1995(平成7)r男はつらいよ紅の花Jのロケ地になりました。
大広間は地元をはじめ、イベントなど多目的に日常的に利用されています。また襖絵は河野先生が描いたもので花の中に「かたつむりJが描かれています。どこに潜んでいるか探して見てください。

だんじり館
「津山だんじり」の歴史は初代藩主の森忠政が1604(慶長9)に総鎮守地区徳守神社を再興してまもなく始まったとされる祭礼である。
現在のだんじりに当たるものの記録では1668(寛文7)から見られ練り物(山車や行列)を出したとあります。
当初は「神輿太鼓Jからは発展し、幕末以降徐々に変化し担ぐから曳くという現在の形態が確立しました。現存するだんじりで最も古いものは宮脇町の「簾珠肇」で1820(文政3)に造られした。
大隅神社のだんじりは12台在り、内7台が県重要有形文化財です。このうち勝間田町、中之町、西新町、東新町の4台が展示されています。
徳守神社では24台の内県重文は20台です。高野神社は12台あります。
「津山まつりJは大隅神社が10月第3日曜日、徳守神社神社が10月第4日曜日、高野神社が10月22日の一番近い日となっており神輿と共にだんじりが出動します。
※中之町のだんじりには、担ぎ棒を通す金具がついています。

箕作院甫旧宅
箕作玩甫1799(寛政11〜1863 (文久3)65歳
箕作家の先祖は戦国時代には近江田(現東近江市五個荘町)の箕作城のお殿様で,織田信長と対峠していました。
大阪の陣で秀頼方につき敗れ、子孫の兄弟は母方をたよって美作国楢原上(美作市川こやって来て帰農、しかし弟の義林は津山藩(森長継)に仕官、そして津山藩士で、赤穂四十七士に加わった神崎与五郎の叔母と結婚、子の兄弟の内、兄の義は津山藩に仕官するも元禄10年森家改易となり江戸へ、弟の貞弁は西新町で医者を開業する。医者として津山箕作家の祖であり、院甫の曽祖父である。
院甫4歳の時、津山藩医の父親貞固をがなくなり,続いて兄亡くし12歳で家督を引き継ぐ。
母親の清子は備前塩田の郷土の出で教養が高いことから、周りの進めもあって津山藩(松平5代康哉)のお姫様の教育係りでお城に奥女中として上がった。
院甫は21歳で津山藩医となり、26歳の時江戸へ出て津山藩医の宇田川玄真に蘭学を学んだ。

院甫の業績
@翻訳家として著作を通じヨーロッパ文化の導入に貢献した。
医学、語学、歴史、地理、学、造船、宗教など広汎な分野に渡り99部、160冊余り出版しました。人間の背の高さにもなります。
A幕末の国際関係の緊迫していた時期に幕府の外交交渉に携わり活躍をしました。
1853 (嘉永6)アメリカ東インド艦隊司令官長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航した時、院甫と宇田川輿斉(4代)はアメリカ国書の翻訳を命じられました。その1ヶ月後ロシアの使節プチャーチンが長崎に渡来し、通商の開始と、千島、樺太の国境交渉を要求しました。この為幕府と長崎に同行、文書の翻訳にあたりました。
B子孫の一族、一円から日本の近代化に貢献した多くの学者が輩出しました。

津山洋学資料館 6人の胸像(箕作庇甫は除く)  ......津山洋学資料館

津田真道
1829(文政12)〜1903(明治36) 75歳
津山藩の料理番津田吉太夫の長男として津山市上之町の屋敷で生まれた。幼い頃から学問を好み,漢学を学び、また剣、槍弓術、や兵学も習得するなど文武両道に励みました。
1850 (嘉永3)後継ぎを弟に譲り江戸に出て箕作玩甫から蘭学を学びました。
1857(安政4)幕府の蕃書調所教授手伝並となります。
1862 (文久2)幕府の海軍留学生に選抜されオランダに留学、ライデン大学で2年間国際法、憲法学、経済学、統計学、など学び、帰国後幕臣となり、開成所(現東京大学)教授や大目付を務めました。
1873(明治6)福沢諭吉、森有礼、西周、磯野計などと「明六社」(啓蒙思想団体)創設に参画する。
1893(明治23)国会開設され(首相伊藤博文)衆議院議員となり初代副議長を務める。貴族院議員、男爵、法学博士「津田真道は日本近代化の法整備に尽力した。」

箕作秋坪
1837(天保8)〜1886(明治16) 62歳
真庭市北房町普部の出身で、祖父は常陸国土浦藩の飛地で、あった現美作市下町の陣屋の代官であった菊池応輔です。父親は教諭所(津山藩預所の郷学)の学監(校長)です。
秋平は19歳の時江戸にでて箕作院甫の塾に入門、蘭学を修めました。22歳の時、ひたむきな学習態度が気に入られ院甫の養子に選ばれます。しかし阮甫はまず緒方洪庵の適塾に学ぱせました。
1850(嘉永3)院甫三女の「つねJと結婚、家督を相続して津山藩の藩医となり、そして蕃書調所の教授職手伝いとなります。
1861(文久元)幕府は通商条約実施延期交渉の為、西欧に派遣した使節団に福沢諭吉と共に随行、6ヶ国を1年かけて訪問しました。帰国後幕臣となり1866(慶応2)幕府の北方領土の境界線確定交渉使節団に随行してロシア訪問するなど外交交渉に活躍しました。
明治になってから日本橋の津山藩中屋敷に英学塾「三文学舎」を開設し活躍しました。卒業生には統合平八郎、原敬、平沼淑郎、朕一郎兄弟、磯野計など600名にも及びます。

宇田川玄閥
(初代江戸詰) 1755(宝暦5)〜1797) 43歳
字国川家は漢方医であった父親が津山藩医に召し出されており、玄随は鍛冶橋の津山藩江戸屋敷(院東京駅南側)で生まれでています。
玄随が日本で最初の西洋内科書である「西洋内科撰要J(18巻)を刊行しましました。このことにより宇田川の名は天下に広まり、蘭学が一層広まることになりました。大変な勉強家で杉田玄白から「津山候の藩医に宇田川玄随あり。これは博覧強記の人なりJと評されまました。
1792(寛政4)藩主のお供で津山にきて「蹄分け」を行いました(4回来ています)宇田川玄随は津山に本格的な洋学を紹介した先駆者である。

宇田川玄真
(2代江戸詰め) 1769(明和6)〜1834) 63歳
伊勢の出身、玄随の門下に入り、のち杉田玄白の養子となるも訳あって離縁となった。その後玄随の養子となり宇田川家を継いだ。
幕府の蕃書和解御用(洋書翻訳)となる。玄真の業績で大きなものは多くの蕃書を翻訳したことです。
なかでも解剖学書「医範提綱Jはベストセラーとなりました。「大腸」「小腸」リンパ腺の「腺」,勝臓の「豚」の文字は玄真が考案したものです。
箕作院甫、緒方洪庵を育て門下は600名もいたと言われています。杉田玄白から「蘭学の棟梁j と称賛されました。
玄真も津山で蹄分けを行っています。宇田川玄真は「蘭学中期の立役者」 である。

宇田川榕庵
(3代江戸詰) 1798(安政10)〜1846(弘化3) 49歳
大垣藩出身で14歳で源玄真の養子となる。長崎でオランダの医師シーボルトの鳴滝塾で洋医学を学び、以後も親しく交流が続きました。
日本で最初の植物学や化学を紹介しました。植物学書「植物啓原」を出版しました。
「気管」「花粉」「細胞」「花柱」などの植物用語を名付けた。
化学では「舎密閉宗」を出版、セイミとは化学のことです。
「酸素「」水素」「窒素」「酸化」「還元」「温度」「気化」「圧力」「沸騰」「溶解」「燃焼」「中和」「成分」などなどの造語は50を超えます。
榕庵という人は医学だけでなくいろんな分野に好奇心旺盛なマルチ学者で6ヶ国語を話すと言われています。
中でも「珈琲」の当て字は榕庵が名付けましたが「珈」 は女性の髪飾り「琲」は珠を貫いた飾りとそれぞれ意味があるようですが、格庵はどんな珈琲を飲んだのでしょうか。長崎を通じオランダから入った豆と言うと,東南アジア産ノアラピカ種で今の「マンデリンj の可能性が高いようです。
宇田川椿庵は日本の近代科学の生みの親である。

械東むかし町家(梶村家)
江戸期中頃「山内屋」という屋号ですが、当時何を扱っていたのかはっきりと分かりませんが当時は南側に屋敷があったようで吉井川の高瀬舟の物資を扱っていたのでしょうか。
1767(明和4)に津山藩(4代松平長孝)の委託を受け「札元Jとして藩札を発行、両替商など大きな商いをしていました。
明治になり当主の梶村平五郎(l863(嘉永6)〜1916(大正5)は県会議員、銀行経営,撚糸工場経営など実業家として成功を収めました。
この屋敷は間口15.8間(31.5m)奥行34mで約320坪です。この敷地のなかに江戸、明治、大正、昭和と4つの時代の建物が同居している複合住宅で珍しいとかやのみや思います。また格式の高い家で、1935(昭和10)皇族の賀陽宮殿下(戦後皇籍離脱)が騎兵隊を率いて日本原に演習に来た時、梶村家に泊まられています。
1997(平成9)建物は国の登録文化財の指定を受けています。

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