山王様は、山を支配する神霊で山を支配する神様だから、山の王様、即ち山王様である。
近江の国でこの神霊は比叡山に鎮まる神とされていた。比叡・日枝・日吉、文字は違うがみな「ひえ」と読み、比叡山を意味している。
天台宗開祖である伝教大師最澄さいちょうは、比叡山に登り修行を積み天台宗延暦寺を創建したが、最澄は近江の国坂本の生まれで、比叡山の山王様に対する信仰は、子どもの時から身についていた。当然のことながらこの神聖な比叡山に登り草庵を結んで修行する以上、山王様の加護を願って、鎮守の神として祀ることは極めて自然のことである。こうしたことに由来するのであろうか、天台宗の寺院の鎮守の神は、山王様が圧倒的に多く、天台宗である慈悲門寺の鎮守が、山王様であることは当然のことであろう。
【大手門跡・水門跡】
城郭の本丸方面へ登る要の位置にある。若干の石垣が残存しており。
東隣には平坦地がある。何らかの建造物があったものと考えられるが、詳細は不明である。
【3.水神様と龍神池】
祭神は罔象女命、山名教清が築城にあたり山名氏の本拠地である伯耆国(鳥取県)にある赤松池の龍神を勧請して、岩屋城の鎮守の神として祀ったものである。水が強く旱天にも涸れることがなく、「雨乞い」の神として地元の人はもちろん、近郷の人たちの尊崇を集めていた。
【4.井戸跡】
生活に一番大切なのは水です。この山の頂から湧き出る水は、570年もたった今でも涸れることはない。
【5.馬場跡】
岩屋城郭のなかでは一番広い平地である。眺めも大変よく休憩所もある。
別に馬が走りまわっていたところでもないようで、必要な時に武士が集まって会合を開いたり、物を作っていたり、時には馬の練習をしていたかもしれない場所である。
【石橋上砦跡・椿ケ峪砦跡】
天正9年(1581)の岩屋城接収戦の際に、毛利方の攻撃に備えた砦跡である。
【6.本丸跡・落とし雪隠】
岩屋山で一番高いところ(標高482.7m)、この場所から城郭が一望できる。
北側には「落とし雪隠」と呼ばれる垂直に近い断崖絶壁となっており、ここから敵が攻めてくることは、まずあり得ない天険の要害となっているところである。
天正9年(1581)6月25日、毛利軍は32人の決死斬込隊もって、ここをよじ登り城に火を放ち落城に追い込んだ。
この有名な戦いは今も語り継がれている。
【7.大堀切】
堀切は山の尾根を切り下げ切断して、登ってくる敵をくい止める防御施設である。
この岩屋城には数か所現存している。
なかでも二の丸から北に向かう尾根にある、深さ6m・幅7m程の城内最大の堀切であり、これを大堀切といっている。
通常の通行は、橋を渡すなどの方法であったと考えられるが、これら堀切自体が横方向への通路の役目を果たしていることも否めない。
【8.てのくぼり跡(竪掘)】
連続する竪堀遺構のことであるが、当地方では「てのくぼり」と呼ぶ。これは、拳固を握った時にできる手の甲の凸凹(手の窪)に由来した呼称のようである。
現状で残っている遺構は、頂点から頂点へ幅が約6m、深さが約2m程度で、延長70m〜80m程度、最長のものは130mを測り波板状の景観を呈するが、築城された当時の深さは現状の倍以上あったと想定される。
この施設の上端から見下ろすと、下端まで充分望見できて、戦時には敵の動きが一目瞭然に視認できたに違いない。
畝の頂部にいる時などには、格好の狙撃目標となったことであろう。
また、もし敵の攻撃を受けた時には、石材を上端部から転がすことで、有効な防御になりえたと想像される。
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