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歴史と文化の城下町岩屋城を守る会
美作国の始まり(歴史的背景とお国事情)
岩屋城

○○○○ 【概  説】
岩屋城跡は津山市中北上にあり、国道181号線から北に入った岩屋谷と、その西に北に向かう明谷の二つの谷が、ほぼ平行して北に向かって走っている。この二つの谷の北限は、標高413mの地点の鞍部で接続し、この接続地点の南は標高482.7mの地点を最高所とした、いわば独立した山になっている。この独立した山が「岩屋山」である。

○○○○ この岩屋山の頂部及び450mの等高線の内部が、ほぼ城郭のあった区域と考えられるが、その周辺にも防備施設の跡と思われる遺跡があり、標高240m付近で岩屋谷から明谷に通ずる山道がある。
ほぼ、このあたりを境にして北の部分には、敵の襲来に備えての施設が各所に設けられており、また戦略上の施設以外にも寺跡及びこの寺の鎮守の神、山王宮の跡などもあり、これらを含めた一体が本体部分の岩屋城跡と言われているところである。
そして、この岩屋城が美作の戦国史を代表する城郭であるといわれる由縁、凄さがこの本体部分をぐるりと取り囲むように12の陣城群があり、残存の土塁総延長は8,000mに及んでいる。この陣城群は、天正12年(1584)、宇喜多氏が岩屋城の武力接収をはかるため、岩屋城包囲戦に造営されたものではないかといわれている。

【岩屋城築城の背景】
嘉吉元年(1441)美作国の守護となった山名教清は、美作に兵を進めて、この地をことごとく平定した。そこで、築城の地を探索した結果、岩屋山を選んだ。この地を選んだ理由は次のことが推測される。

○○○○

1.悲門寺という寺が岩屋山の麓にあったこと
対立する勢力の最前線を「境目」と呼んでいたが、この時代は美作国はまさに「境目」であり、この地を掌握するには、武力だけが必要とは言えない。
地元の有力寺社を味方につけることが何より大切だった。
当時の宗教勢力は地元信仰の核であり、時には住民結集の場にもなった。
地元勢力を確実に味方に引き入れるためには、まず、中核となる寺院勢力を取り込む必要があった。

2.山頂に飲料水が豊富におったこと

3.眺望が非常によかったこと
東方に津山盆地一帯、西方では久世・落合さらに勝山まで見渡すことができる地であった。

4.出雲街道が南下にあったこと
山頂から南下方向に、東西に走る出雲街道が通じており、津山盆地の西端を押さえられる位置にあった。

5.独立した山で要害堅固の地であったこと
この山は全体が急峻で、敵に攻められにくく、とくに北側は断崖絶壁となっていて、敵が攻めてくるのは難しい地形となっていた。

【城郭の構造】
本城は独立山塊をなす岩屋山(482.7m)の山頂に本丸を置き、本丸を中心に三方向に尾根上を削平した大規模な郭を配する。
これらの主郭を支える出丸の役割を果たすものとして、西南方向に石橋上砦や椿ケ峪砦を設け、西方向には小分城を築いていた。また、本丸の東方向には二の丸をおき、二の丸西南の尾根鞍部から、南方向を望む部分には三の丸を配す。このとこから、全体としての縄張りは梯郭式に分類される。
さらに、二の丸・三の丸東方向谷部には、12本の連続する竪堀遺構(てのくぼり)を配し、防御施設としている。
これらの郭以外にも大手筋には、大小20か所以上の郭を有する山城は、美作地方では他に例を見ないものである。

岩屋城
岩屋城

【1.岩屋山慈悲門寺跡】
○○○○ 登り口より250mほど登ったところにある
本寺は平安時代円珍和尚(智証大師)の開基とされ、岩屋城築城より五百数十年以前からあった寺である。
この寺院は城郭全体からみると大手筋にあたり、現在残る遺構は、岩屋城の東端にあたる谷に面する尾根の頂部を削平し、東西45m・南北25mの馬蹄形の平坦面を造りだしていて、建物はこの平坦面に建築されていたと想定される。
○○○○ そして、この一帯からは土器や瓦の破片が見つかっており、また、各所に転石(建物基部?)が確認できるが、建物の詳細については現在のところ一切不明である。
その他の遺構としては、南北方向に走る一条の溝状遺構がある。
これについても建物関連の遺構と推定はできるものの、その性格やその詳細は判明していない。
さらに、慈悲門寺のすぐ下段の尾根上や西方の山腹には斜面を削り出した平坦部が十数か所確認され、これらは慈悲門寺を防御する郭の性格を持つものとされている。
このことから、有事の際には本寺を出丸として使用していたことがうかがわれる。
ところで、この付近には天台宗の寺院が多く、その大部分は第三代目の天台座主円仁(滋覚大師)の開基であるが、この岩屋山慈悲門寺のみが円珍の開基であり、慈悲門寺という寺号は勅賜(天皇からいただいたもの)とされていることは、特異の存在と言わなければならない。
この慈悲門寺の近くに禅宗(曹洞宗)である沢竜山少林寺という寺院が今も現存しているが、この寺の本尊は十一面観音で33年に1回開帳の秘仏で、元は山名教清の寄進したもので、岩屋山慈悲門寺の本尊であったが、後の岩屋城主・大河原弾正が少林寺に移したものと伝えられている。

円珍和尚【えんちんわじょう】

円珍和尚は、弘仁5年(814)讃岐さぬきの国くに(香川県善通寺市)に生まれ、母は弘法大師空海くうかいの姪に当たり、15才の時伝教大師最澄さいちょうが開いた天台宗の総本山比叡山延暦寺に登り、厳しい修行や仏教研修につとめ、19歳で年分度者ねんぶんどしゃ(当時の正式な僧侶になるための国家試験)に抜群の成績で合格し、その後十二年余の篭山ろうざん修行しゅぎょうの難関も無事に通過した。そして兄弟子の滋じ覚かく大師だいし円仁えんにんの後に続き中国に渡り、天台密教の修行を行ない、帰国後は天台密教の興隆に力を注ぎ「天台」「密教」「修験道」の三体系を取り入れ「寺門宗」の一宗派をつくった。
貞じょう観がん元年(859)、現在の滋賀県大津市園城寺町にある長なが等山らさん園城寺おんじょうじを天台寺門宗の総本山として再興した。
この寺は古来より延暦寺・東大寺・興福寺とともに日本四箇大寺の一つに数えられ、別名「三井寺みいでら」とも言われている。
貞観10年(868)には第五代天台てんだい座主ざすとなり、寛平3年10月29日、78歳をもって入滅されるまで24年間の長きにわたり仏法の興隆に尽くされ、延長5年(927)、後醍醐天皇より「智証大師」の諡号しごうが贈られた。
なお、大師は死に臨んで弟子たちに次の三カ条の戒めの言葉で諭したという。
一、円宗擁護、山王の神恩を忘却せざること二、前光定和尚(伝教大師)扶持の恩を忘却せざること三、慈覚の徒(慈覚大師)と和合して歓心を失わざること(※諡号とは.朝廷から亡くなった高僧へ与えられる称号)

岩屋城

○○○○ 【2.山王宮跡と拝殿跡】
慈悲門寺から300m余り登った所に、山王宮拝殿跡がある。山王宮に至る道は非常に険しかったため、一般の参拝者はこの場所から拝んでいたそうである。
この拝殿跡から東北の方向を望めば、岩窟の中に祠を祀っている所が見えるが、これは山王宮跡であり、山王様と呼ばれている。
この山王宮は岩屋山慈悲門寺の鎮守で、円珍和尚がこの寺を建立する際に、近江の国坂本(現在の滋賀県大津市坂本)にある日吉大社から、山王様(山王大権現…祭神は大山咋命)の分霊を勧請されたもので、岩屋城の築城よりも五百数十年も以前のことである。
この山王宮は、明治44年に鶴坂神社に合祀されたため、山王宮跡ということになったが、地元住民は今でも参拝し、年一度のお祭りしている。

岩屋城 岩屋城
慈悲門寺の鎮守の神がなぜ山王様なのか?

山王様は、山を支配する神霊で山を支配する神様だから、山の王様、即ち山王様である。
近江の国でこの神霊は比叡山に鎮まる神とされていた。比叡・日枝・日吉、文字は違うがみな「ひえ」と読み、比叡山を意味している。
○○○○ 天台宗開祖である伝教大師最澄さいちょうは、比叡山に登り修行を積み天台宗延暦寺を創建したが、最澄は近江の国坂本の生まれで、比叡山の山王様に対する信仰は、子どもの時から身についていた。当然のことながらこの神聖な比叡山に登り草庵を結んで修行する以上、山王様の加護を願って、鎮守の神として祀ることは極めて自然のことである。こうしたことに由来するのであろうか、天台宗の寺院の鎮守の神は、山王様が圧倒的に多く、天台宗である慈悲門寺の鎮守が、山王様であることは当然のことであろう。

【大手門跡・水門跡】
城郭の本丸方面へ登る要の位置にある。若干の石垣が残存しており。
東隣には平坦地がある。何らかの建造物があったものと考えられるが、詳細は不明である。

○○○○

【3.水神様と龍神池】
祭神は罔象女命、山名教清が築城にあたり山名氏の本拠地である伯耆国(鳥取県)にある赤松池の龍神を勧請して、岩屋城の鎮守の神として祀ったものである。水が強く旱天にも涸れることがなく、「雨乞い」の神として地元の人はもちろん、近郷の人たちの尊崇を集めていた。

○○○○

【4.井戸跡】
生活に一番大切なのは水です。この山の頂から湧き出る水は、570年もたった今でも涸れることはない。

【5.馬場跡】
岩屋城郭のなかでは一番広い平地である。眺めも大変よく休憩所もある。
別に馬が走りまわっていたところでもないようで、必要な時に武士が集まって会合を開いたり、物を作っていたり、時には馬の練習をしていたかもしれない場所である。

○○○○

【石橋上砦跡・椿ケ峪砦跡】
天正9年(1581)の岩屋城接収戦の際に、毛利方の攻撃に備えた砦跡である。

【6.本丸跡・落とし雪隠】
岩屋山で一番高いところ(標高482.7m)、この場所から城郭が一望できる。
○○○○ 北側には「落とし雪隠」と呼ばれる垂直に近い断崖絶壁となっており、ここから敵が攻めてくることは、まずあり得ない天険の要害となっているところである。
天正9年(1581)6月25日、毛利軍は32人の決死斬込隊もって、ここをよじ登り城に火を放ち落城に追い込んだ。
この有名な戦いは今も語り継がれている。

○○○○

【7.大堀切】
堀切は山の尾根を切り下げ切断して、登ってくる敵をくい止める防御施設である。
この岩屋城には数か所現存している。
なかでも二の丸から北に向かう尾根にある、深さ6m・幅7m程の城内最大の堀切であり、これを大堀切といっている。
通常の通行は、橋を渡すなどの方法であったと考えられるが、これら堀切自体が横方向への通路の役目を果たしていることも否めない。

○○○○

【8.てのくぼり跡(竪掘)】
連続する竪堀遺構のことであるが、当地方では「てのくぼり」と呼ぶ。これは、拳固を握った時にできる手の甲の凸凹(手の窪)に由来した呼称のようである。 現状で残っている遺構は、頂点から頂点へ幅が約6m、深さが約2m程度で、延長70m〜80m程度、最長のものは130mを測り波板状の景観を呈するが、築城された当時の深さは現状の倍以上あったと想定される。
この施設の上端から見下ろすと、下端まで充分望見できて、戦時には敵の動きが一目瞭然に視認できたに違いない。
畝の頂部にいる時などには、格好の狙撃目標となったことであろう。
また、もし敵の攻撃を受けた時には、石材を上端部から転がすことで、有効な防御になりえたと想像される。

宇喜多氏の岩屋城接収戦での陣城と土塁

天正12年(1584)3月、宇喜多氏は岩屋城を接収するため荒神山城主花房助兵衛職秀を軍奉行として2万を超える大軍を差し向け、毛利方の岩屋城(城主中村大炊介頼宗)を完全に包囲する陣形をとった。その陣形の模様がわかる陣城・土塁が現存している。

岩屋城

小分城跡(陣城)の調査 【中世山城研究家 山形省吾

この小分城については、二つの説がある。その一つは、天正12年以前から岩屋城の出城として作られていた。
もう一つの説は、天正12年の攻防戦で陣城として作られた。
私は、この小分城については、この戦いのおきる以前から作られていたと考えている。
調査をして縄張図を書いてみると、岩屋城の主郭を中心にして小分城の構えが、その外を敵として講築されているからである。
しかし、小分城と小分城を繋ぐ土塁は、天正12年攻め方の宇喜多方によって作られたと考えられる。
土塁の断面図(下図)を見ると敵となっている部分が岩屋城の中心、主郭を向いている。
となれば、この戦いで土塁が作られたことを意味している。土塁は図面のごとくきれいに残っている所と形がくずれて残っている所、また無くなった箇所もあるようだ。
総距離数12km、土塁が残っているのは8km。荒神の上は織豊系の築城形を色濃く残していることを付記しておく。

岩屋城
上記、小分城の名称は延宝7年(1679)保田助左衛門が森家に書きあげた文書による
岩屋城
岩屋城 岩屋城
岩屋城 岩屋城
岩屋城
岩屋城包囲しての接収戦の結末!

講和の成立から、宇喜多方はいつまでもそのまま放任しておくわけにもいかず、城の 無血接収ができないならば、武力接収もやむをえないとの決断をした。
岩屋城の中村頼 宗は備えを固めて籠城に入った。
岩屋城は天険を利用した強固な山城で、毛利方はよく 防備したため、宇喜多勢も容易に攻め込むこともできず、決戦の機会をなかなかつかむ ことも出来ず、いたずらに月日を費やしていった。
この間、毛利方の諸城は、岩屋城の戦いを注視し、宇喜多軍が攻めあぐねている様子 を見て、動き始める機会をうかがっていた。
美作には毛利方、宇喜多方の城々があり、 岩屋城の戦いから美作全体が戦乱のちまたと化して、長期化する可能性を呈してきた。
第十五代将軍足利義昭は、織田信長に京都を追われたため、毛利氏をたより鞆の津 (広島県)に身を寄せていたが、美作のこの様子を心配して調停に乗り出してきた。
宇喜多軍もはかばかしく展開しない戦況にしびれを切らしていて、一方の中村軍も疲れ 果てていたことから、同年の12月に入って調停が成立し、戦いは収拾されることとな った。
毛利方の岩屋城をはじめ諸城は開城して城を明け渡し、美作一円は宇喜多秀家の 治めるところとなった。
天正12年(1584)12月、岩屋城主中村頼宗は岩屋城を開城し安芸の国に帰った。
この ため城を接収した宇喜多秀家は、宿将長船おさふね越中えっちゅう守のかみを在番の城主として入城させた。
《第九代城主・長船越中守》……岩屋城最後の城主

岩屋城
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