【概 説】
岩屋城が存在したのは、嘉吉元年(1441)の築城から天正18年(1590)8月廃城になるまでの149年間にわたり、山名・赤松・浦上・尼子・宇喜多・毛利の各氏が美作の制覇をかけて、本城を舞台に幾度か激しい攻防が繰り広げられたのである。
その間の攻防の歴史は次のようなものである。
【築城前の状勢】
美作の地は、位置的にも比較的山陰方面との関係が深かった関係上、出雲族の勢力圏内であった。そのため、久米部の駐屯となり、北条執政末期までの長期間は平穏無事で山間の別天地であったようである。
しかしながら、建武の中興が崩壊し、足利氏の謀反により天下は南北朝に分裂し、武士の闘争は全国に波及していった。
その頃より美作国は、播磨の赤松氏と山陰の山名氏が交互に守護職になっており、岩屋城築城の直前の守護職は赤松氏であり、美作の守護所は院庄に置かれていた。
【山名氏の時代】
嘉吉元年(1441)、美作の国の守護職赤松満祐は時の第六代将軍足利義教を殺して本国の播磨に引き揚げた。
(嘉吉の変)この赤松満祐を討伐したのが山名軍であり、もちろん山名教清もこの軍に参加しており、その総大将は山名持豊(宗全)であった。その功により赤松氏の所領を持豊以下戦功のあった諸将に分与した。
持豊の一門である山名教清は美作の守護職に任ぜられたのである。
そこで、山名教清は、自分の本城として岩屋城を築いた。
しかしながら、本城は美作全土からみて、その位置が西にかたよっているので、東方の備えとして津山鶴山(現在の津山城跡の地)に築城して、守護代の叔父山名忠政をこれにおいた。
ここから岩屋城が始まる。《初代城主・山名教清》
中央においては第八代将軍足利義政の後嗣についての争いが起こった。即ち、細川勝元が義政の弟義視を推すのに対して、山名持豊(宗全)は義政の子義尚を推し、ついに戦乱となった。
応仁元年(1467)に始まったこの戦乱がいわゆる「応仁の乱」で、この時の岩屋城主は山名教清の子で山名政清の代になっており、政清は兵3,000をもって上洛し、山名持豊(宗全)の軍に加わった。《第二代城主・山名政清》
【赤松氏の時代】
この上洛の嘘に乗じて赤松正則は、大河原・小瀬・中村を以て、文明元年(1469)岩屋城を攻落し、大河原治久を岩屋城に置き、文明5年(1473)美作の守護職となった。《第三代城主・大河原治久》
【浦上氏の時代】
永正15年(1518)、赤松政則の子政村の時、その武将の浦上村宗は主家赤松氏に叛き、永正17年(1520)春に至り岩屋城を奪って、その将中村大和守則久をこの城に置いた。《第四代城主・中村則久》
永正17年(1520)4月、赤松政村は浦上の手から岩屋城を奪還しようと、小寺範職・大河原治久を将として、岩屋城に押し寄せて城を囲むこと半年に及んだが落城しなかった。
一方、城将の中村則久の方も疲れきり、落城の危機をむかえた。そこで中村則久は急便をもって浦上村宗に救いを求めた。
村宗は宇喜多能家に命じて兵2,000をもって岩屋城の救援に向かわせ、村宗自身も兵を率いて救援に向かったことから、赤松氏の城奪還作戦は失敗に終わった。
時は永正17年の10月であった。《第五代城主・中村則治》
【尼子氏の時代】
浦上村宗の救援によって危機を脱した岩屋城は、それから24年後の天分13年(1544)、尼子勢の進攻にさらされることとなった。
岩屋城主は中村則久の子の則治であったが、尼子の勢いのすさまじさと、村宗亡き後の浦上勢からの救援もままならない状況から、則治は尼子の軍門に降った。
しかし、城は引き続いて中村則治に安堵され、副将格として芦田備後守秀家が在城することとなった。《第五代城主・中村則治》
【宇喜多氏の時代】
永禄11年(1568)の頃、宇喜多直家は岩屋城の攻略を画策した。このとき、城中の芦田正家(秀家の子)は、城主中村則治を殺害して宇喜多直家に投じ、正家は一時岩屋城主 となった。《第六代城主・芦田正家》
しかし、宇喜多直家は芦田正家の兇悪を憎み、5年程後に、正家を殺して、天正元年(1573)直家の伯母婿にあたる、浜口淡路守家職を城主とした。《第七代城主・浜口家職》
宇喜多直家は作州を手に入れるため、その機をうかがっていた。
しかし、毛利勢は作州の地にも根を張っていて進出はままならない情勢のもとにあった。
そこで、永禄9年(1566)宇喜多勢は毛利と手を結び、作州におおいに進出していった。そこで岩屋城は宇喜多勢の重要な拠点となり、しばらくの間は安寧な日々が続いた。
宇喜多直家は、天正5年(1577)、織田信長の先鋒として羽柴筑前守秀吉が中国地方に進出したことから、上月城での合戦となった。
この頃から宇喜多方は毛利から離れ、織田信長に味方する方針に切り替えた、そこで、毛利方には内密にしておいて羽柴秀吉を介ししきりに工作を進めていった。
この動きは毛利方も察知していたが、天正7年(1579)宇喜多直家は、毛利と絶縁して羽柴秀吉に応じることになった。
作州の国内には、毛利方の城、宇喜多方の城が混在しながら、互いに相争うこともなく平穏な状態が続いていたが、宇喜多直家の裏切り行為によって、作州の諸城間の平衡がやぶれることとなった。
【毛利氏の時代】
天正9年(1581)、毛利は苫西郡山城村(苫田郡鏡野町)の葛下城主中村大炊介頼宗に命じ、苫西郡養野村西浦(苫田郡鏡野町)の城主大原主計介等とともに、浜口家職の岩屋城を攻めさせた。
陽動作戦、32人の決死斬込隊!
さて岩屋城は天下の要害で、この城を攻撃することは容易ならぬことであることは毛利方も十分わかっていた。
そこで、中村頼宗は加治子山に主力をおいた。加治子山は岩屋城の南、出雲街道の通る平地を挟んだ南の山続きにある標高491mの山で、岩屋城跡より高く、直線距離にして3,000mの真南にある。
頼宗はこの山の中腹に偽装のわら人形を配置して、岩屋城の注意をこれに集めておいて、岩屋城の北から決死隊の切り込み作戦を決行した。
岩屋城本丸の北側は大変な断崖(落とし雪隠と言われている)になっていて、人のよじ登ることのできない要害であり、防備も手薄となっていた。そこに目をつけ大原主計介を主将として、年齢20才から40才までの壮士32人原田藤七郎・西尾与九郎・立石孫一郎・大林久助・・・・・・・・を選んで決死の斬込隊を編成した。
天正9年6月25日の風雨の夜、大手正面からは中村頼宗以下桜井越中守直豊・木村勘兵衛氏政等が城門に迫り、一方の決死斬込隊は本丸の北側をよじ登り、ついに城壁を破り突入して城内に火を放った。
このため城内は大騒動となり、浜口勢は動揺し混乱におちいった。
そこに相呼応して大手の奇手も城内に斬込んで大激戦となったが、腹背に敵を受けた城兵は八方へ逃げ散り、ついに浜口家職も討ち死にし、惨憺たる敗戦となって岩屋城は落城した。
そして、この戦に勝利した中村頼宗が新たな岩屋城の城主となった。《第八代城主・中村頼宗》
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