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歴史と文化の城下町岩屋城を守る会
美作国の始まり(歴史的背景とお国事情)

岩屋城が誕生した中世室町期における美作国の社会状勢が如何にあったか、それは美作国の起源に求めなければならない?

○○○○ 古代古墳時代において、現在の岡山県(旧国名:備前・備中・美作)と広島県東部(旧国名:備後)は、一つの領域として「吉備」と呼ばれ強大な力を持っていた。
それは吉備の平野部で収穫される米と、瀬戸内の塩、それから、中北部で生産される鉄という重要な産物に恵まれていたためであろう。また、考古学的にも、畿内(旧国名:大和・山城・摂津・河内・和泉)についで多く古墳が造られ、天皇陵に匹敵する規模の大前方後円墳が何基もあることは注目される。
この吉備地方は山陰の出雲地方と並んで、中央集権である大和朝廷に対立する強国であって、5世紀の後半以来、吉備氏一族は大和朝廷に対してしばしば反乱を起したことが「日本書紀」に見られ、大和政権はその力を弱めようと、吉備にくさびを打つべく欽明16年(555)になると、白猪の屯倉と児島の屯倉を置いた。
この白猪屯倉が置かれた吉備五郡はどこを指すのか定説はないが、後の時代に白猪臣大足や白猪臣證人といった人物が白猪から大庭に改姓していることから、大庭郡などがあった吉備北部の美作地方を指すとの見方があり、真庭市五反(旧久世町)の付近ではあるまいかとされている。そうであれば、吉備における砂鉄の一大生産地を押さえて、この地の鉄と鉄資源を獲得するという屯倉設置の目的に合致するもので、それほど無理な推論ではない。
○○○○ しかし、吉備の豪族たちはなおも力を持っていたのである。大化の改新の立役者天智天皇の死後、皇位継承戦争となった壬申の乱(672)の際、吉備はどちらにも加担せず勢力の温存を図った。
る。大化の改新の立役者天智天皇の死後、皇位継承戦争となった壬申の乱(672)の際、吉備はどちらにも加担せず勢力の温存を図った。
乱に勝利した大海人皇子は天武天皇となり、律令による強力な国家を作ることをめざした。律令国家の行政は、都を中心として地方に国・郡・里(里は後に郷)からなる行政区画を設置し、地方の政治の仕組みを確立して行った。そのため、壬申の乱で一緒に戦った石川王を吉備に送り込み、吉備を分割することになった。天武天皇は吉備を備前・備中、そして備後の三国に分けることにし、石川王を吉備の大宰という三国を統括する官人に任命したと考えられる。しかし、備前はその北部が鉄生産地であったため、そのまま力を持ち続けたようであった。
そこで、国家は奈良時代初期の和銅6年(713)、さらに、備前国のうち英田・勝田・苫田・久米・大庭・間嶋の6郡を割いて、美作国を設置したのである。中央政府にとって白猪屯倉の持つ意味は美作全土にわたっての支配権を意味するものであり、中央政府が出雲と吉備の中間に美作をおいたのは、150数年も前に設置した白猪屯倉の意義を継承したものといえよう。
このように、美作国は中央政権により直接支配されていたためか、後の中世になっても天下を狙うような強大な、豪族或いは国人や土豪といった在地領主は、美作国内からは育たなかったのではないかと推測される。
美作国は、「境目」と言われるように、播磨・備前・備中・因幡・伯耆に接しており、南北朝以来守護が次々と交代した地域である。とくに戦国期以降は、山名氏ら外部勢力の侵攻に悩まされ続けてきた。一般的に美作は「草刈場」と称されるが、強大な勢力が東西南北に位置するがゆえに止むを得なかったのであろう。

岩屋城
美作の守護、赤松氏と山名氏 〜二大勢力のはざまに揺れた美作〜

○○○○ 西播磨の土豪出身の赤松氏・清和源氏の東国武士山名氏とも、建武の新政が挫折するといちはやく足利尊氏に従い、赤松氏は播磨のほか山陽諸国、山名氏は因幡のほか山陰諸国の守護に任じられて、幕府で重用された。
美作では初め赤松貞範が守護に任じられたが、
南北朝中期には山名義理が獲得する。しかし11か国もの守護を手にした
山名氏の強勢を恐れた第三代将軍足利義満は、明徳の乱(1391)によって、山名氏一族を一挙に弱体化させることに成功する。
これによって、美作守護職は赤松氏の手にもどり、以後半世紀、美作は赤松氏の支配下におかれた。
嘉吉元年(1441)6月、強権によって次々と有力守護を倒す第六代将軍足利義教の、次の照準が自分にあることを感じた赤松満祐は、先手をうって将軍義教を殺害する。
幕府からは山名氏を大将とする赤松討伐軍が派遣され、同年の9月、満祐一族は播磨城山城(たつの市)で自害し、この戦功によって美作は播磨・備前とも山名氏に守護職が与えられ、その支配下に入ることとなった。
《この時に、山名の一族である山名教清が美作守護職に任ぜられ、岩屋城を築城したのである。》

《この時に、山名の一族である山名教のり清きよが美作守護職に任ぜられ、岩屋城を築城したのである。》

○○○○

しかし、再び強権となった山名氏を恐れる幕府重臣細川氏は、赤松氏の遺臣(浦上則宗など)を支援してその再興を助ける。長禄2年(1458)、赤松政則は家門の復興を許され、文明5年(1473)には美作・備前・播磨の守護職も回復した。
《赤松氏は応仁元年(1467)に岩屋城を攻落した。》

当然、山名氏は激しく抵抗し、文明12年(1480)〜13年(1481)には、山名政豊の派遣した軍勢が因幡より東美作に侵攻し、小房城(美作市)、粟井城(美作市)で激闘が展開され、このとき赤松氏は南条氏ら伯耆の反山名勢力と連携していたが、山名軍にも美作の武士が多く参加しており、二つの勢力の交替が繰り返されたこの地方の現地事情の複雑さをうかがわせる。美作を制した山名政豊は播磨・備前にも兵を進め、一時は赤松氏を圧倒したが、本国因幡で反乱が起こったため撤退していった。
しかし、山名氏との戦いで赤松氏の受けた打撃は大きく、明応5年(1496)赤松政則没後の美作・備前では浦上氏の勢力が強まっていく。このように南北朝期から応仁の乱が終わる頃まで、美作国は赤松氏と山名氏の二大勢力の交替が繰り返されてきた。
長い間ここで暮らしてきた小さな武士集団は、半農でもあり耕地の大部分を取り込まれ、生き抜くための激しい苦悩と選択をせまられた。このとこはここにとどまらず、これより下克上の戦乱の世へと突入していき、守護大名に代わって戦国大名が誕生していくこととなった。

《下克上の乱世の世に入ると、岩屋城は浦上氏勢力からの時代となる。》

○○○○

【室町幕府のしくみ】 守護とは日本全国の国々に置かれた軍事長官であり、鎌倉時代の将軍・源頼朝が朝廷より任命する権限を得て、忠実な部下をこの地位につけ、地方を確固たる武力統制のもとにおくために始めた制度である。
○○○○ (今でいう知事・裁判所長官・警察本部長)しかしながら、鎌倉時代の守護は幕府から任命された地方の役人にすぎなかったが、室町時代になると南北朝の内乱をとおして荘園を侵略、地頭や土着の武士を従え、一国をまとめて支配するようになった。
このような守護を守護大名という。 管領:将軍を補佐し、政治全般を行う最高の職で、斯波・細川・畠山の三氏が交代で就任した。
侍所:御家人の統制や軍事、警察をつかさどる役所で、ここの長官は管領に次ぐ要職で、赤松・山名・京極・一色の四氏の中から選ばれた。

岩屋城史

【概 説】
岩屋城が存在したのは、嘉吉元年(1441)の築城から天正18年(1590)8月廃城になるまでの149年間にわたり、山名・赤松・浦上・尼子・宇喜多・毛利の各氏が美作の制覇をかけて、本城を舞台に幾度か激しい攻防が繰り広げられたのである。
その間の攻防の歴史は次のようなものである。

○○○○ 【築城前の状勢】
美作の地は、位置的にも比較的山陰方面との関係が深かった関係上、出雲族の勢力圏内であった。そのため、久米部の駐屯となり、北条執政末期までの長期間は平穏無事で山間の別天地であったようである。
しかしながら、建武の中興が崩壊し、足利氏の謀反により天下は南北朝に分裂し、武士の闘争は全国に波及していった。
その頃より美作国は、播磨の赤松氏と山陰の山名氏が交互に守護職になっており、岩屋城築城の直前の守護職は赤松氏であり、美作の守護所は院庄に置かれていた。

【山名氏の時代】
嘉吉元年(1441)、美作の国の守護職赤松満祐は時の第六代将軍足利義教を殺して本国の播磨に引き揚げた。
(嘉吉の変)この赤松満祐を討伐したのが山名軍であり、もちろん山名教清もこの軍に参加しており、その総大将は山名持豊(宗全)であった。その功により赤松氏の所領を持豊以下戦功のあった諸将に分与した。
持豊の一門である山名教清は美作の守護職に任ぜられたのである。
そこで、山名教清は、自分の本城として岩屋城を築いた。
しかしながら、本城は美作全土からみて、その位置が西にかたよっているので、東方の備えとして津山鶴山(現在の津山城跡の地)に築城して、守護代の叔父山名忠政をこれにおいた。
ここから岩屋城が始まる。《初代城主・山名教清》
中央においては第八代将軍足利義政の後嗣についての争いが起こった。即ち、細川勝元が義政の弟義視を推すのに対して、山名持豊(宗全)は義政の子義尚を推し、ついに戦乱となった。
応仁元年(1467)に始まったこの戦乱がいわゆる「応仁の乱」で、この時の岩屋城主は山名教清の子で山名政清の代になっており、政清は兵3,000をもって上洛し、山名持豊(宗全)の軍に加わった。《第二代城主・山名政清》

【赤松氏の時代】
この上洛の嘘に乗じて赤松正則は、大河原・小瀬・中村を以て、文明元年(1469)岩屋城を攻落し、大河原治久を岩屋城に置き、文明5年(1473)美作の守護職となった。《第三代城主・大河原治久》

○○○○

【浦上氏の時代】
永正15年(1518)、赤松政則の子政村の時、その武将の浦上村宗は主家赤松氏に叛き、永正17年(1520)春に至り岩屋城を奪って、その将中村大和守則久をこの城に置いた。《第四代城主・中村則久》
永正17年(1520)4月、赤松政村は浦上の手から岩屋城を奪還しようと、小寺範職・大河原治久を将として、岩屋城に押し寄せて城を囲むこと半年に及んだが落城しなかった。
一方、城将の中村則久の方も疲れきり、落城の危機をむかえた。そこで中村則久は急便をもって浦上村宗に救いを求めた。
村宗は宇喜多能家に命じて兵2,000をもって岩屋城の救援に向かわせ、村宗自身も兵を率いて救援に向かったことから、赤松氏の城奪還作戦は失敗に終わった。
時は永正17年の10月であった。《第五代城主・中村則治》

【尼子氏の時代】
浦上村宗の救援によって危機を脱した岩屋城は、それから24年後の天分13年(1544)、尼子勢の進攻にさらされることとなった。
岩屋城主は中村則久の子の則治であったが、尼子の勢いのすさまじさと、村宗亡き後の浦上勢からの救援もままならない状況から、則治は尼子の軍門に降った。
しかし、城は引き続いて中村則治に安堵され、副将格として芦田備後守秀家が在城することとなった。《第五代城主・中村則治》

【宇喜多氏の時代】
永禄11年(1568)の頃、宇喜多直家は岩屋城の攻略を画策した。このとき、城中の芦田正家(秀家の子)は、城主中村則治を殺害して宇喜多直家に投じ、正家は一時岩屋城主 となった。《第六代城主・芦田正家》
しかし、宇喜多直家は芦田正家の兇悪を憎み、5年程後に、正家を殺して、天正元年(1573)直家の伯母婿にあたる、浜口淡路守家職を城主とした。《第七代城主・浜口家職》
宇喜多直家は作州を手に入れるため、その機をうかがっていた。
しかし、毛利勢は作州の地にも根を張っていて進出はままならない情勢のもとにあった。
そこで、永禄9年(1566)宇喜多勢は毛利と手を結び、作州におおいに進出していった。そこで岩屋城は宇喜多勢の重要な拠点となり、しばらくの間は安寧な日々が続いた。
宇喜多直家は、天正5年(1577)、織田信長の先鋒として羽柴筑前守秀吉が中国地方に進出したことから、上月城での合戦となった。
この頃から宇喜多方は毛利から離れ、織田信長に味方する方針に切り替えた、そこで、毛利方には内密にしておいて羽柴秀吉を介ししきりに工作を進めていった。
この動きは毛利方も察知していたが、天正7年(1579)宇喜多直家は、毛利と絶縁して羽柴秀吉に応じることになった。
作州の国内には、毛利方の城、宇喜多方の城が混在しながら、互いに相争うこともなく平穏な状態が続いていたが、宇喜多直家の裏切り行為によって、作州の諸城間の平衡がやぶれることとなった。

【毛利氏の時代】
天正9年(1581)、毛利は苫西郡山城村(苫田郡鏡野町)の葛下城主中村大炊介頼宗に命じ、苫西郡養野村西浦(苫田郡鏡野町)の城主大原主計介等とともに、浜口家職の岩屋城を攻めさせた。

陽動作戦、32人の決死斬込隊!
○○○○

さて岩屋城は天下の要害で、この城を攻撃することは容易ならぬことであることは毛利方も十分わかっていた。
そこで、中村頼宗は加治子山に主力をおいた。加治子山は岩屋城の南、出雲街道の通る平地を挟んだ南の山続きにある標高491mの山で、岩屋城跡より高く、直線距離にして3,000mの真南にある。
頼宗はこの山の中腹に偽装のわら人形を配置して、岩屋城の注意をこれに集めておいて、岩屋城の北から決死隊の切り込み作戦を決行した。
岩屋城本丸の北側は大変な断崖(落とし雪隠と言われている)になっていて、人のよじ登ることのできない要害であり、防備も手薄となっていた。そこに目をつけ大原主計介を主将として、年齢20才から40才までの壮士32人原田藤七郎・西尾与九郎・立石孫一郎・大林久助・・・・・・・・を選んで決死の斬込隊を編成した。
天正9年6月25日の風雨の夜、大手正面からは中村頼宗以下桜井越中守直豊・木村勘兵衛氏政等が城門に迫り、一方の決死斬込隊は本丸の北側をよじ登り、ついに城壁を破り突入して城内に火を放った。
このため城内は大騒動となり、浜口勢は動揺し混乱におちいった。
そこに相呼応して大手の奇手も城内に斬込んで大激戦となったが、腹背に敵を受けた城兵は八方へ逃げ散り、ついに浜口家職も討ち死にし、惨憺たる敗戦となって岩屋城は落城した。
そして、この戦に勝利した中村頼宗が新たな岩屋城の城主となった。《第八代城主・中村頼宗》

≪感状書≫
32人の決死斬込隊の活躍に対して、その内の一人である西尾与九郎に与えられた @毛利輝元 A中村頼宗 B小早川隆景の感状書

岩屋城
岩屋城
○○○○

天正10年(1582)備中高松城において、中国地方制覇をめざす織田氏(羽柴秀吉・宇喜多秀家)と毛利方の対陣となった。
5月には織田方は高松城の水攻めを始めたが、6月2日に京都本能寺で織田信長は明智光秀の謀反にあい殺された。
いわゆる本能寺の変により、急遽、羽柴秀吉は毛利方との講和を成立させた。

【宇喜多氏の時代】
この講和の条件は高松城主・清水宗治の切腹と、河辺川(現在の高梁川)を境として、毛利方はその西に引き、東は宇喜多秀家が領有することとなった。
※この時すでに宇喜多直家は病死していて、その子秀家が若年ながら、後を継いでいた。
ところが、毛利方にとってこの講和は美作における屈辱的なものであり承服できないとして、岩屋城の中村頼宗、高田城の楢崎元兼、矢筈城の草苅重継、枡形城の福田勝昌、葛下城の桜井直豊らは死を覚悟して叛旗をひるがえした。
そして、各々その城を守り、さらに宇喜多方を美作より掃討しようとして立ち上がった。
そこで、毛利方も本国から食料を送ってこれを支援した。

岩屋城包囲しての接収戦!

講和の成立から、宇喜多方はいつまでもそのまま放任しておくわけにもいかず、城の無血接収ができないならば、武力接収もやむをえないとの決断をした。
天正12年(1584)3月、花房助兵衛職秀を軍奉行として2万を超える大軍で岩屋城を包囲し、12箇所の陣城にそれぞれ兵を配置して攻撃に移った。
岩屋城の中村頼宗は備えを固めて籠城に入った。
岩屋城は天険を利用した強固な山城で、毛利方はよく防備したため、宇喜多勢も容易に攻め込むこともできず、決戦の機会をなかなかつかむことも出来ず、いたずらに月日を費やしていった。
この間、毛利方の諸城は、岩屋城の戦いを注視し、宇喜多軍が攻めあぐねている様子を見て、動き始める機会をうかがっていた。美作には毛利方、宇喜多方の城々があり、岩屋城の戦いから美作全体が戦乱のちまたと化して、長期化する可能性を呈してきた。

第十五代将軍足利義昭は、織田信長に京都を追われたため、毛利氏をたより鞆の津(広島県)に身を寄せていたが、美作のこの様子を心配して調停に乗り出してきた。
宇喜多軍もはかばかしく展開しない戦況にしびれを切らしていて、一方の中村軍も疲れ果てていたことから、同年の12月に入って調停が成立し、戦いは収拾されることとなった。
毛利方の岩屋城をはじめ諸城は開城して城を明け渡し、美作一円は宇喜多秀家の治めるところとなった。
天正12年(1584)12月、岩屋城主中村頼宗は岩屋城を開城し安芸の国に帰った。このため城を接収した宇喜多秀家は、宿将長船越中守を在番の城主として入城させた。《第九代城主・長船越中守》

【廃  城】
その後、天正18年(1590)8月、野火によって城楼ことごとく焼失したが、すでに美作全土が宇喜多領となっていたため、城を存置する必要もなく廃城となったと伝えられている。

岩屋城
岩屋城
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