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岸田吟香を語り継ぐ会岡山県北情報
幸福仕掛け人、岸田吟香の魅力 平成29年3月26日(日)

★足跡を訪ねるバスめぐり★
時  間 : 10時から15時 (津山市から美咲町)
主な行程 : 城東町並保存地区観光駐車場、津山洋学資料館、食堂かめっち、岸田吟香記念館、岸田吟香記念碑、岸田吟香誕生跡地、宝寿寺、坪井宿(安藤家)、城東町並保存地区観光駐車場、

集合場所 : 津山市東新町 城東町並保存地区観光駐車場
募集定員 : 56名 ※定員になり次第締め切ります。
参加 料 : 2,000円(入館料・食事代込み)

★フォーラム(パネルディスカション)★
時  間 : 15時30分から17時(15時開場)
会  場 : 津山市東新町114―4 津山市鶴山ホテル 2階
定  員 : 200名 ☆入場無料☆
パネラー 豊田市郷土資料館長 森  泰道 氏
      津山洋学資料館 田中 美穂 氏
      (公社)津山市観光協会会長 竹内 侑宜
コーディネーター 下山 宏昭 氏(文化ジャーナリスト)

■主催: 公益社団法人津山市観光協会 勝田観光 ■後援: 津山市、美咲町、津山市教育委員会、美咲教育委員会、山陽新聞社、津山朝日新聞社
 【ご予約・お問い合わせ】TEL。0868―22―3310 〒708―0022 岡山県津山市山下97―1 公益社団法人 津山市観光協会

◆ 03.26(日)、鶴山ホテル(動画)

岸田吟香
(1280×720)
津山市観光協会会長 竹内佑宜

岸田吟香
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津山市市長 宮地明範

岸田吟香
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美咲町町長 定本一友

岸田吟香
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文化ジャーナリスト 下山宏昭

岸田吟香
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豊田市郷土資料館長 森泰通

岸田吟香
(1280×720)
津山洋学資料館 学芸員 田中美穂

岸田吟香
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津山市観光協会会長 竹内佑宜

岸田吟香
(1280×720)

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-美咲町栃原岸田吟香誕生地風景

-美咲町栃原公園 岸田吟香記念碑

-美咲町岸田吟香記念館

-円城寺 吟香少年時、落書き

-津山市坪井宿町並み

-津山中須賀

-津山市西新町

-津山市堺町

○○○○ 岸田吟香(きしだぎんこう) 1833〜1905岡山県久米郡美咲町栃原(旧挙母藩久米北条郡中垪和谷村大字大瀬昆1684番地)
天保四年(1833年)四月八日生る。(184年前)天保九年(1837年)久米北条郡中垪和畝村の宝寿寺の住職が開いてた寺子屋で学ぶ
☆坪井へ☆
弘化二年(1845年)十三歳岡山県津山市坪井下(旧挙母藩坪井下村1793番地)安藤家に学僕として二年間過ごした
吟香がお世話になった。当主の安藤善一(あんどうぜんいち)が学門の道に進ませた。
☆津山へ☆
嘉永元年(1847年)十四歳岡山県津山市(旧津山藩)津山南新座93番地に出て八木家に宿お世話になった。
津山では永田孝平、上原存軒に師亊して漢字を学んだ。
吟香は、津山市大篠1674番地 善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経などを教えた。
明治五年(1872年)吟香が作州帰省した際塘芳艸、興津實、津山西新町江見屋定吉、津山境町筏(いかだや)伝助など合っており津山での深いつながりが感じられる。
☆江戸へ☆
嘉永三年(1850年)18歳 江戸に出て、津山藩儒昌谷精溪の門に入り、林図書頭の塾に学ぶ。米国宣教師へップパ―ン(通称ヘボン)を助け(和英語林集成」を編集。元治元年(1864年)、わが国最初の邦字新聞「海外新聞」を創刊。明治六年(1873年)に東京日日新聞に入り記者、編集者として手腕を発揮。翌年の台湾出兵に際しては国内初の従軍記者として現地から生々しい記事を送り、人々に新聞の便命を認識させた。雑報記事の名手といわれ明快、平易な文章で庶民をひきつけた。こうした傍ら、目薬の製造販売や航路開発、わが国最初の目や耳が不自由な子供たちが学ぶ「訓育院」を創設するなど活動した。

全国を黄福(こうふく)にした郷土の偉人 岸田吟香
誰もが一度や二度、また三度、四度はきっと食べたことがある卵かけご飯。そしてどこの家庭でも簡単に味わうことができる卵かけご飯。
美咲町は平成20年1月、合併後間もなく知名度の低かった美咲町を全国にPRしていこうと卵≠観光≠フ目玉に、卵かけご飯の店 食堂かめっち。(町第三セクター運営)を試行的にオープンし、はや9年が経ちました。オープン以来、多くのメディアに取り上げられ、また口コミでも広まり黄福定食≠ニ名付けた美咲町の卵かけご飯を目当てに、人口約1万5千人の町に全国から65万人を超えるお客様が訪れています。
美咲町の卵かけご飯が全国的にヒットした理由のひとつとして、卵かけご飯を美咲流の物語にしたことが考えられます。
町内には西日本最大級の養鶏場があり、120万羽のニワトリが毎日100万個のコクとうまみ≠フある卵を産んでいること。日本棚田百選に選ばれている棚田では、農家が愛情を込めて、手間暇かけて、米作りをしていること。そして何と言っても物語の主役は、美咲町出身の岸田吟香が卵かけご飯をよく食べていたという文献を見つけたことであります。
昭和2年発刊の「江戸生活研究」という雑誌の「明治初期の記者、岸田吟香翁」に翁(吟香)は、毎朝、旅舎の朝飯に箸をつけず、兼ねて用意したのか、左無くば旅舎に云付け鶏卵三、四を取り寄せ食すだけの温飯一度に盛らせて、鶏卵も皆打割り、カバンから焼塩と蕃椒を出し、適宜に振りかけ、鶏卵和にして喰されたものだ。との記載があり、このことから日本で卵かけご飯を常食にしたのは岸田吟香といっても間違いないと思われます。
世界でも生卵を食べる文化は珍しいが、日本でも生で食べるようになったのは明治以降。卵自体は江戸時代にも食べられていたが、加熱するのが一般的だったようです。吟香は生前、卵かけご飯をこよなく愛した一人といえ、今では手軽で栄養がある朝食の代表的メニューとなっています。
吟香の存在がなかったら、今のように白米を黄福色≠ノ彩色する術を知らずして生きていたかも知れない!?今も多くの家庭で、卵かけご飯から一日が元気いっぱいに始まり、卵と米で、日本中を黄福=i幸福)にさせた人物は、岸田吟香ではないだろうか!?
卵かけご飯の取り組みは、美咲町が現在展開する美咲 黄福物語≠フ第一章で「卵かけご飯は町の文化・歴史の詰め合わせ丼」と位置付けています。3つの町が合併しなければ描けなかった、誕生しなかった美咲流卵かけご飯ストーリー。
豊かな自然や棚田の風景は郷土の誇りです。米づくりの苦労や山間地ならではのピオーネの栽培、柵原鉱山の坑道跡地を利用した黄ニラづくりや西日本全域に出荷される「卵」。また私たちの大先輩で卵かけご飯をこよなく愛したと伝えられる、明治時代を代表する岸田吟香氏のジャーナリスト活動だけに留まらない幅広い活躍や功績等々、数多くの美咲町の自慢≠ェ卵かけご飯には詰まっているのです。

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激動の時代を走りぬけた、
郷土の先駆者 岸田吟香
元旭町教育長、元岸田吟香記念館館長 加原 奎吾

≪少年時代≫
岸田吟香は天保4年(1833」年4月28日に、美作国垪和村大字中垪和谷字大瀬毘(現在・岡山県久米郡美咲町栃原)で父・秀次郎、母小芳の長男として生まれた。名は辰太郎と言い、幼い頃から神童といわれ、4歳の時にはすでに「唐詩選」を暗唱していたということからも、如何に秀才だったかが伺える。
幼い頃の吟香は、人一倍肥えて、丈も高く二重瞼の両眼がぎらぎらと輝き、底力のある声を朗々と響かせるのが特徽であったが、眼から鼻に抜けるような神童型の才子ではなく常日頃は沈黙がちで深く何ごとかに思いを凝らしているようなところがあったけけども時として、機智を飛ばし、人を愕かせたり失笑させたりする癖が有り、一面人を喰ったところのある少年であったと言う。
吟香が最初に学んだのは垪和村中垪和畝の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋であった。吟香5歳のときである。
吟香は弟妹が多かったから、寺子屋に行かない時はその子もりも彼の役目だった。言い伝えによると、弟や妹を背負って歩きながら本を読んでいたという。
吟香12歳、もはや垪和で学ぶことがなくなった。彼は坪井の大庄屋・安藤善一(簡斎)のもとに学僕として住み込むことになる。吟香が坪井にいたのは、12歳から14歳までの2年間で吟香には坪井で学ぶものはもはやない、とみた簡斎は、吟香を津山へ出し、はじめ永田幸平、ついで上原存軒に漢学を学ばせ、かたわら矢吹正則について剣道を修めさせた。吟香が津山で学んだ期間は5ヵ年、その間津山郊外高田村(大篠)にある善応寺で私塾を開き、村の青年たちに四書五経や「日本外史」などを教えながら、勉強につとめていたのである。
吟香の学問は、津山での五年間でほぼ完成の域に達していた。
江戸へ出ても,そのまま林図書頭の代講が務まるほどの学力を、すでに身につけていたのである。これ以上学ぶには江戸へ出なければならない。それにはとりあえず三河挙母藩に話を通さなければならなかったであろう。幸いに簡齋は挙母藩の領内取締大庄屋、代官のような立場の人であり、挙母藩へはあらかじめ通じていたことであろう。むろん津山藩とも話はついていたはずである。
津山時代に吟香を取り巻いていた師はもちろん、友人も知己もそのほんどが書や歌をよくし、勤王の人だった。吟香の勤王思想や書画の才は、津山時代の雰囲気の中から生まれ育ったものといえよう。
吟香が江戸へ向かったのは、嘉永5年(1852)の暮れであった。19歳で江戸へ出た吟香はまず津山藩の儒者昌谷精渓の門に入る。吟香は円城寺(吉備中央町)本堂の柱に「男兒立志出郷關若不成學死不歸提姿宮の壁に「深山大沢流龍蛇垪和住人為日参客題之」などの落書きを残しているが、これは江戸へ出立前に参詣したとき書いたものといわれる。 吟香はまもなく精渓の紹介で昌平黌の林図書頭へ入門して同黌で学び、嘉永7年ごろには図書頭の代行として水戸藩邸と秋田藩邸で講義を許されている。
当時の水戸藩主は徳川斉昭で、家臣には藤田東湖等もおり、尊王壤夷論が盛んであった。その影響で吟香も尊王壤夷論者と変わるようになった。
安政2年(1855)、吟香は挙母藩内籐氏に召し出されて中小姓に登用され、二口捧(一日につき米一升)を給された。
挙母藩儒官時代について挙母では太郎左衛門と名乗って、嫡子文成公をはじめ藩の子弟の教育にあたる一方、大いに藩政を改革、治績をあげたので、文成公が藩主となるに及び、文久元年3月3日特に儒官に任ぜられ藩政に産業に大なる治績をあげ領民から名儒として評判が高かった。
藩政いついて藩主(実際は藩老であろう)と意見を異にするようになり脱藩するのはその後のことである。

勤王の志士との交流と挫折
学問に励にんでいた吟香は安政2年初冬、持病の脚気が悪化し、失意のうちに帰郷した。
伯母の嫁ぎ先である久米南条郡別所村(現久米南町)の光元家に奇寓して療養に努め、一年後病が癒えると再び江戸を志すが、両親の許しが出ず、伯父の執り成しで大坂までの許しがでる。
大坂へ出た吟香は藤沢東?の門に入った。東?は讃岐(現香川県)出身の儒学者であり、中国語にも湛能で大坂で泊園書院という塾をひらいていた。
この塾で学んでいる間に尊王攘夷派の中心的人物ともいうべき梁川星厳の知己を得、梅田雲浜、頼三樹三郎、僧・月性ら上方の尊王攘夷派の志士たちと親交を結んだ。
同年5月、会津藩士で昌平黌の先輩南摩羽峰が諸国探索の帰途、大坂へ立ち寄ると、南摩羽峰に同道して江戸へでて、藤森天山(弘庵)の塾に入った。
天山は徳川斉昭・藤田東湖とも親しい儒学者であった。安政5年、幕府大老井伊直?は日米和親条約に調印、これに反対する尊王攘夷派の志士たちへの弾圧が始まった。
天山の建議書が幕府の忌諱にふれ天山が幕府に引致されたのは同年10月で建議書を代稿した吟香も身の危険を感じ、翌6年春ごろから上州(現群馬県)伊香保へ身を隠した。
伊香保は温泉で、諸国から保養に訪れる人々が多く、隠れ住むには好都合であったのであろう。
安政の大獄が起こるのは翌6年のことで、徳川斉昭は永蟄居、頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内ら多くの志士が逮捕、処刑された。安政7年3月、大老井伊直弼が桜田門外で水戸の浪士に殺害されたのを知った吟香は、密かに江戸へ帰り、上野に隠れ住んでいた。
吟香はまだ挙母藩士の身分であったが、同藩では罪を問われることもなく、まもなく挙母藩の儒者に登用された。
儒者となった吟香は幼少6歳の藩主内藤文政の教育にあたるとともに藩政についても建言した。しかし、その建言は重臣の反発をかい、藩邸見廻りという軽職に落とされたため脱藩して再び伊香保へ走った。
数か月後、江戸へ帰ったが、禄を失った吟香は食べるために湯屋の三助、左官の手伝いなどをし、さらに吉原の妓楼の主人にもなった。
このころの名を銀次と名乗り、のち吟香と改めた。文久2年(1862)、吟香29歳のころである。
1年後、妓楼の主人をやめた吟香は浅草で床屋(屋台店)を開いて商いをしながら生活した。このころの生活体験が後の事業家吟香を生んだといってもよいであろう。

米人医師ヘボンとの出会い
文久3年(1863)5月、眼病を患った吟香は、津山藩の洋学者箕作秋坪の紹介で治療のため横浜の米国人医師ヘボンを訪れた。
失明を懸念していた眼病はヘボンの調合した目藥でわずか一週間で全快した。
そのころヘボンは和英対訳辞書の編纂を行っており、吟香が和漢の学問に通じているのをみて協カを要請され、そのまま滞在して編簒を手伝ったがその間にジョセフ・ヒコこと浜田彦蔵を紹介され、英語を習った。
ジョセフ・ヒコは播磨の船頭で、遠州灘を漂流中に米船に救助されて米国に渡り、ボルチモアのミッションスクールで学び日本人ではじめて米国の市民権を得たのち、帰国していた。
吟香がこのジョセフ・ヒコ等とわが国最初の新聞「新聞紙」を発行したのは、元治元年5月のことであった。
翌慶応元年(1865)には「海外新聞」と改題して再発行するとともにヘボン邸へ移り住み、ヘボンとともに本格的に和英対訳辞書の編集を進め、同時にヘボンの治療や藥の調合を手伝って医学的知識を身につけた。
和英対訳辞書の草稿が完成した慶応2年(1866)9月、印刷のためヘボンとともに上海へ渡り、美華書館で印刷に取りかかり吟香は鉛で仮名活字をつくる。
翌3年3月これを「和英語林集成」と名付けて出版された。ヘボンとの出会いは、その後の吟香の生き方を決定的なものとした。

亊業家兼新聞記者としての活躍
○○○○ 慶応3年5月、上海から帰国した吟香は横浜に移り住み、ヘボンから学んだ水溶性目薬「精リ水」の製造・販売を始めるとともに江戸・横浜間の定期航路を計画するなど、亊業家として歩み始めた。翌4年正月には汽船買い付けのため上海へ渡航、同地に精リ水の取次所を開設した。
汽船買い付けは失敗したが、帰国すると戊辰戦争をよそに「横浜新報・もしほ草」を創刊、新政府が幕府から没収した稲川丸の差配人となって横浜・東京間の定期航路の運航も開始した。
また明治2年(1869)には中川嘉兵衛と氷の製造・販売も始めた。事業が軌道に乗った明治5年4月、一時帰郷し、母や兄弟に合い、父の墓参を遂げ、安藤簡斎を訪ね、再び横浜へ帰った吟香は、翌6年9月に「東京日日新聞」(のちの毎日新聞)へ主筆として入社、編集人となった。
新聞発行の経験と筆力を買われたものであった。
明治7年の台湾出兵には、自らわが国初の従軍記者しとて台湾へ渡った。
東京日日新聞に掲載した「台湾信報」は有名である。
○○○○ 吟香の平易な文章は新聞記事の模範とされ、その後の新聞に大きな影響を与えた。
東京日日新聞には編集人・印刷人として明治15年まで在社した。
明治8年4月に横浜から東京尾張町(銀座5丁目)、次いで銀座2丁目へ新築、移転した吟香は、東京日日新聞の編集人・記者として活躍するとともに楽善堂を興して精精リ水の製造・販売を続け、また明治14年ごろには楽善堂書房を設立して出版亊業も手懸けた。
同年10月には東京日日新聞に『精リ水功験書』を掲載、これは日本の新聞広告の先駆けといってよい。
そのころには同紙の発行所である日報社でも精リ水を取り扱っていた。
当時、日本には眼病が多く、その根絶は国民的課題ともいうべきもので、日報社あげて支援していたわけである。
明治11年正月の精リ水の初荷は1200円で、銀座っ子を驚かせたという。大坂に支店を出し、全国各地に出荷していたためである。明治13年には東京日日新聞在社のまま4カ月余にわたって上海へ渡航を許され、上海に楽善堂支店を開きその後も5回にわたって渡航し、蘇州・福州漢口などにも支店を開設、その販路は中国18省に及んだという。
明治15年に東京日日新聞を退社、楽善堂・楽善堂書房の経営に専念するようになった吟香は、次々に新藥や香水を製造・販売し薬業界で重きをなし、同23年には全国藥業組合会頭に就任、会頭退任後も長く同組合評議員を務めた。

日中友好に尽力
明治14年ごろ設立した楽善堂書房では、日中間の相互理解を深めるため中国人の著書・訳本などを次々に刊行、自らも明治15年に「清国地誌」全3冊を出版した。
これは中国を知るうえで基本的な文献として珍重された。
日中貿易、日中友好には特に意を用い、明治23年には荒尾精の日清貿易研究所設立に参加し、同30年には美作出身の白岩龍平等と経済・文化・教育活動にょって日中両国の提携をはかることを目指し、遺族院議長近衛篤磨を会長とする同文会を設立した。
翌31年には中国の革命を支援する目的で組織されていた東亜会と同文会が合併し、「支那の保全」を目的とする東亜同文会が設立されたが、これには評議員として参加し、同会が日中間の友好協力の基盤を固めるために必要な人材を養成するため上海に開設した東亜同文書院の設立にも加わった。
明治31年には清国のアヘン禍防止のため私費で「戒烟医院創設を計画、伊藤博文等に清国要人への動きかけを依頼したが、これは実現するに至らなかった。
上海に『玉欄吟社」を設立し、上海の詩人を毎月2回招待して詩会を開いて文人との交流を図った。
世界各国の重要文献を中国語に翻訳したものを中国に郵送して広く流伝させた。
また、学者「兪曲園」に日本人の漢詩の選定を依頼して、日本漢詩集「東瀛詩選」を編纂出版し、経費はすべて吟香が工面した。そして、藥や書籍を中心に日中貿易に尽力した。

慈善亊業への取り組み
吟香は慈善亊業にも積極的に取り組み、明治8年5月には前島蜜等と楽善会を組織し、訓盲院の設立を計画、点字本の刊行も決めた。
訓盲院は東京府から土地の提供をうけ、明治15年になって築地に開設された。
翌16年には?唖者の入院もできようなり、訓盲唖院と称したが、これはのちに文部省の直轄となり東京盲唖学校と改称された。
明治12年に美作出身者を集めて責善会を設立し会主となっているのも、この訓盲院設立と係わるものであろう。
明治26年秋、岡山が大水害に襲われると、水害義損金募集の発起人となり、また作楽神社(津山市院庄)の保存資金にも応募するなど、岡山のために尽力している。
吟香は伊藤博文・井上馨・季鴻章・木戸孝允・張斯等日清両国の政界要人とも親しかったが、政治には係わらず事業家として一生を全うし、明治38年(1905)6月7日銀座・楽善堂で亡くなった。
享年72歳であつた、吟香の葬儀は遺言によって、キリスト教方式によって6月10日、東京上野の谷中斎場で行われ、伊藤侯、桂伯、寺内陸相、久保田文相、芳川内相、板垣伯等の各代、清国公使楊樞、菊池学習院長、南摩羽峰、大槻如電、小野湖山、浜村蔵六、中村梧竹、山本芳翠等の学、書、画家など700人を起す人が吟香の死を惜しんだ。
日本だけでなく中国にまで広く販売された精リ水は吟香に莫大な富をもたらしたはずであるが、死後に残ったのは借金だけであったという。

結婚と家族
吟香は晩婚であって、明治2年(1869)に横浜の為替商小林勇蔵の3女カツと結婚したのは、吟香37歳、カツが15歳のときであった。
カツ婦人は勝ち気な性格で、仕事のために東奔西走して、家事をかえりみない吟香のために7男5女と多くの子供達をよく教育しながら家事と商業を一手に引き受け吟香に心配かけることなく仕事に打ち込ませた。
吟香とカツ夫婦は大変仲がよく、吟香の日記によると、明治23年11月10日浅草の凌雲閣(12階)ができると、その4日後には吟香は早くもカツ夫人をつれてそれに登っておりますし、また翌24年の元旦には、午前4時に起きて入浴し、雑煮を祝ったあとカツ夫人と一緒に愛宕山に登り、初日の出を眺めたなどと書いており、夫人を大切にしている様子がよくわかる。
有名な画家の岸田劉生は、吟香の4男で「麗子徴笑」は彼の代表とし、重要文化財に指定されている。
5男の辰彌は宝歌劇団の演出家でわが国のステージに初デビュー、モン・パリを送り出しラインダンスを考案した人です。

日本で最初に生卵をご飯にかけて食べた男
昨年は、生卵をご飯にかけてたべる、卵ご飯ブームになり出雲地方では全国サミットが開催され、また、醤油の製造地においてもイベントが開催された。
マスコミからも取材があったので紹介したい。
「明治初期の記者・岸田吟香翁」に、翁(吟香)は毎朝、旅舎の朝飯に箸をつけず、兼て用意したものか、左無くば旅舎に云付け鶏卵3、4を取り寄せ食すだけの温飯一度に盛らせて、鶏卵も皆打割り、カバンから焼塩と蕃椒を出し、適宣に振かけ鶏卵和にして喰されたものだ。との掲載がありこのことから日本で卵飯を、常食にしたのは岸田吟香と言っても間違いないと思われる。

あとがき
岸田吟香は、今で言うマルチ人間であり、あまりにもいろいろな面で活躍しており、その事業も今の時代を先取りしたものといっても過言ではない。
激動の時代を走りぬけた先駆者のほとんどの一部しか紹介できないので、吟香の偉大さを十分理解いただけないとおもわれる。
吟香の業績を簡単にまとめて、紹介としたい。

1 日本で最初の邦字新聞の発行 ジョセフ・ヒコと新聞紙、
のち海外新聞と改題。横浜新報・もしほ草の創刊。

2 江戸横浜間の定期航路の運航
使用していた稲川丸は、のちに開拓使に売却され、青函連絡船として使用された。

3 眼藥「精リ水」の製造・販売
日本国内はもちろん、中国全土で販売。

4 氷室商会の設立
最初北海道の五稜郭の氷を販売。のちの氷室商会を設立、氷の製造・販売をおこなう。

5 日本最初の従軍記者
台湾出兵にあたり、遠征軍の都督府に従軍を願い出るが、にべもなく断られてしまう。軍の御用商人・大倉善八郎に相談して西後従道都督に合い、黙許をえて、大倉組の手代とし従軍が可能となる。その従軍記亊は名文であり、世を挙げて喝采した。

6 日中友好に尽くす
多くの知人、要人、文人との交流を通じ中国の文化の発展に尽くす。

7 社会事業への取り組み
津田仙、中村正直、山尾庸三、前島密、吉川正雄、小松彰、杉浦譲と盲院を設立。

8 石油の掘削を計画
新潟での石油掘削を計画、明治2年許可を受けるも、いろいろの事情で実現せず。

9 和英語林集成の編集
米国の宣教師・医師ヘボンの和英語辞書編纂を手伝う。印刷に当たっては鉛活字を作る。辞書の名前も吟香がつけた。

10 雑報の名手
吟香の雑報文は一般の人がその場の雰囲気が、見ずしてわかるような文章であり名文といわれた。
御巡幸の記「風雨中箱根を越ゆるの記」は名文といわれている。
福地桜痴が若い記者たちに語った言葉に文章は、論文というものはまことにやさしいものである。
然るに記事文というものは実に六ケしいものである。
自らその所在を目のあたりに見る如く、また聞く如く書き表すのが記事文である。
また風景なり何なり實際その通りに書くのが記事文であるだから君達はまづ論文を稽古するより記事文を稽古しなければならぬ。それには、この岸田吟香先生は實に名人だ。かやうに申された。

11 口語体の導入
吟香の文章は口語体でない場合でも、解りやすくやさしいものであった。
○○○○ 慶応2年辞書印刷のため上海に滞在中の日記「呉淞日記」に日本の學者先生たちがほんをこしらへるに四角な字でこしらへるが、どういふりやうけんでほねをおつてあんなむつかしい事をした物かわからねエ。支那人に見せるにハ漢文でかいた方がよからうけれども、日本の人によませて日本の人をりこうにする為につくるにハ、むつかしく四角な文字で、 あとへひつくりかへってよむ漢文を以て書物をつくりてハ、金をかけて版にしてもむだの事なり。勞して功なしといふンだ。
おいらもなにはの東?翁、江戸の精渓先生、弘庵先生の弟子にもなつて、しほのからいたくわんで儒者くさいめしもたくさん吃たから、漢文のつくりかたも少しハしつてゐるけれども、書物をこしらへるにハ四角な文字ハつかはないつもりなぜといつてミなせエ、着物をつくる事ハ、ミな世の人によませて、りこうにならせるとか、おもしろがらせるとかの為に、する事なり。

12 広告の先覚者
吟香は新聞広告を大々的に利用した最初の人で広告を重視して広告の専門紙「広告日表」(のち「広告日報」と改称)を創刊した。多くの錦絵もある。

御巡幸の際に出たされた精リ水広告
参考文献(『東京日日新聞』明治11年11月11日掲載)
杉浦正著、岸田吟香一資料から見たその一生。旭町誌(加原耕作氏原稿)
岸田吟香肖像写真岸田吟香記念館蔵 「桃花散・百発百中膏・精リ水」引札岸田吟香記念館蔵

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公益社団法人 津山市観光協会 〒708-0022 津山市山下97-1 0868-22-3310