◎生い立ち
明治25年3月7日、父杉山幹一と母美加の三男として久米郡稲岡南村大字北庄山手54番地にて出生。
幼少期より成績優秀につき数々の表彰を受ける。明治40年度と41年度は津山中学校の特待生となっている。津山中学時代は「文章世界」、「中学世界」、「秀才文壇」などに投稿する文学青年であり、投稿仲間の矢野禾積氏や黒田慶次氏、木村毅氏等と競っていた。のちに本人は石川達三氏に関する記事の中で、自分の事を「笑止千万にも、一時、作家生活を夢見たことさえあると」記している。
父の幹一は長年村長や県会議員をしていたが、選挙の度に先祖伝来の田畑を売り払い、榮が津山中学を卒業する頃には困窮し、上級学校に進学させてもらえなかった。その為中学卒業と同時に短期間ではあるが、久米郡内の加美尋常高等小学校で代用教員を務めた。
学業を諦められず、大原孫三郎氏の奨学金「大原奨学貸資」を受け、大正元年九月に早稲田大学高等予科に進学。大学部政治経済学科第一学年の時は首席となり次年度の学費を免除されている。大正三年七月に病のため中途退学している。
◎職歴
雑誌エコノミスト社の記者をかわきりに、岡山新聞社、神戸又新日報社、山陽新報社、中国民報社を渡り歩き、大正9年に再び山陽新報社に編集長として入社している。こののち現役の編集局長のまま二年間ドイツのベルリン大学に学び、帰国後編集局長に復帰している。
中国地方の新聞社を代表して社団法人同盟通信社の理事に就任。戦時下の国策による新聞社の一社体制構築の為、山陽新報を代表して中国民報との合併協議を主導した。合併後は合同新聞社の取締役編集局長を経て副社長となっている。
合同新聞社取締役副社長時代に敗戦を迎え、首脳陣の一新を図る為に取締役副社長を退任し顧問に就任した。
昭和22年10月25日、戦争責任を問うGHQによる公職追放令G項(言論・報道関係)に該当し、公職追放を受ける。昭和26年6月20日、3年8ヶ月に及ぶ公職追放が解除された。
昭和27年〜昭和30年、日本大学講師・教授、社会学講座を担当。
昭和29年〜昭和41年、美作短期大学講師・教授、社会学講座を担当。
◎人となり
何事においてもとても厳格な人であり、特に自分を律するということにおいては人後に落ちない人であった。戦前は岡山市内の高額所得者ランキングに掲載される所得を得ていたが、戦後の公職追放以後は清貧に甘んじていた。
病の為に大学を中退しているが、本人は後に喘息と狭心症に苦しんだ。酒は飲まなかったがヘビースモーカーであった。喘息に良くないと好きなたばこをきっぱりと止め、その後は健康には人一倍注意し、規則正しい生活を送っていた。
美作短期大学の学生論文集「想林」第11号(昭和44年3月)は杉山榮追悼号となっているが、杉山卓学長は「…さらに教室におかれましては、その学識の豊かさと緻密さとで学生たちを魅了し、またよく教授の口をついて出るユーモアに、室内が明るい笑いに包まれることも度々であったと聞いております。」と述べられている。また、編集後記に刊行委員の学生が「杉山教授の博学、ユーモラスな講義は本学の名物の一つでありました。」と記している。
ユーモア、ユーモラスと言う言葉が出てくるが、家で冗談を言う人ではなく、気難しくて、取っ付きにくい人であり、孫から見ても煙たい存在であった。誕生寺で榮の生家跡を守る従弟の杉山哲郎(岸田吟香を語り継ぐ会々員)も地元の人から「とても面白いユーモアに溢れる講演だった」と聞いたことがあるそうだが、想像できないなあと二人で顔を見合わせた。
◎岸田吟香略傳と先驅者岸田吟香執筆の経緯
昭和26年9月20日発行の岸田吟香略伝の序文に、津山市の新聞記者会の主唱のもとに岸田吟香顕彰会が設けられたこと。自分に対しても、吟香略伝の刊行、碑文の執筆、放送資料等の提供を求められたことが記されている。
吟香と同じ久米郡に生まれ、且つ多年に亘って吟香に関する資料を収集し、新聞雑誌に吟香に関する執筆をしたことの故に依頼を受けたのであろうこと、「そして欣然として、この求めに応じたのは言うまでもないこと」と記している。
この伝記の執筆のために、「与えられた時日は僅々旬日に過ぎず、顧みて遺憾な点が多い」とも記している。榮はかねがね、新聞記者は自分が書いた記事には責任を持たなければならないと述べており、この吟香略伝の出来に満足していなかった事が窺える。
「この書の脱稿に当たっては、先輩美土路昌一氏の温かい激励を始め、篠原正典、…(順不同)等、津山記者会関係者諸氏の懇篤な鞭撻に負うところが多く、わけて池上退蔵(朝日新聞東京本社)、村上右造、草地保、岸田秀生(いずれも吟香誕生の地に在住)等の諸氏の懇ろな援助を得た」と記している。
9月26日に津山市商工会館にて岸田吟香先生顕彰会発起人会が開催され、この時出来上がったばかりの「岸田吟香略傳」が配布されている。杉山宇三郎氏は日記に「文句やや雑なれども明解」と記している。また別の日の日記には「著者が豊富な資料をよく駆使して、偏見のない正しい澄んだ目でもって、その、綱要をつくされた真摯な態度が身に迫ってくるのを覚えたのであったが、しかし、何だか汁のない羹を口にした様な感なきをえなかったのである。」とも記している。
10月3日には第一校講堂(現津山文化センター)で新聞週間大講演会が開催され、杉山榮は「新聞自由のあけぼの」と題して岸田吟香の事績を講演した。10月5日〜7日には津山商工会議所で岸田吟香記念展覧会が開催されている。また、10月21日には津山市役所において岸田吟香顕彰会発会式が挙行された。
杉山宇三郎氏の日記によると、10月27日に氏は岡山の杉山宅を訪問し、新たにもっと詳細な岸田吟香伝を書くようにと、執筆の依頼をしている。そして日記の続きに、先駆者岸田吟香の出来映えについて「…従って骨格に十分肉が加わり血液も循環して居り、…天才『岸田吟香』の全貌を描いて余すところがない。略傳を読んで聊かあきたらなさを覚えた私達はここに『先驅者岸田吟香』を得て大いなる愉悦を覚えると共に、杉山氏の労作に対し敬意と感謝を表する次第である」と満足感をもって記している。その後、榮は乞われて美作女子短期大学の講師となり、教授となった。
◎マスコミ界のネットワーク
美土路昌一氏を頂点とする作州人脈
いつ頃榮に吟香傳の執筆依頼がなされたのか定かではないが、与えられた時間は僅か十日間程であったと述べていることから、依頼を受けたのは発行日の一ヶ月乃至二ヶ月程前で、8月中旬か早くても7月中旬ではなかったかと思われる。
昭和2年5月の消印のある美土路昌一氏が榮に宛てた手紙が残っているので、氏と榮の親交は大正時代から続いていたものと思われる。氏は津山の名士であり岸田吟香顕彰運動発起人会にも名を連ねていたので、榮に吟香略伝の執筆依頼がなされることを知っていたものと思われる。調査や協力体制の手回しの良さから、執筆依頼は寧ろ氏の推薦ではなかったかと想像をしている。
吟香に関する情報を提供する昭和26年8月15日から10月9日までの9通の書簡が残されているが、8月15日の美土路氏の葉書には「尚昨日友人の話にて吟香翁は十三才より二十才位まで坪井駅付近の安藤孝二氏(巽ノ当主)の父君の家に学僕のやうに寄寓してゐたといふ話です記者団の方にもこれから通知して置くつもりですがご参考に申し上げます」と記されている。これは現在では周知の事実であるが、70年前にはローカルで語られることはあっても、広く世間には知られていない新情報ではなかったか。
池上退蔵氏の実地調査と関係者への面談調査
池上氏は朝日新聞の大先輩美土路氏の依頼によって、郷土の偉人である岸田吟香について様々な調査をしている。谷中の岸田家の墓地の調査や、岸田劉生氏の未亡人らに面会し直接取材をしているが、さすが新聞記者だけあって、この池上氏の取材は詳細且つ正確であって、非常に有益な新情報に溢れていた。先駆者岸田吟香執筆に欠かせぬ存在であった。
美土路氏は苫田郡の出身であるが、氏も榮も同じ作州人であり、津山中学、早稲田大学、ジャーナリストと同じ道を歩んだ先輩と後輩である。先輩美土路昌一氏を頂点とする作州人脈のネットワーク無しには、岸田吟香略伝も先駆者岸田吟香も書けなかったであろうと思われる。郷土の偉人、作州出身の新聞人、先駆者岸田吟香の伝記を著すには、最適のチーム構成であったと思われる。
◎岸田準一氏の感想
読後の感想として、「小生はこの程偶然御著『岸田吟香』を入手一気に読了致し、先生の資料蒐集の御苦心を察しわが国最初の正伝をものにされたものとして感謝感激に堪えません」と述べられている。
また今迄に出版されたものについてかねがね不満を抱かれていたようで、「戦争勃発前後に岩崎栄氏のものが出ており…小生も一部所持しておりましたが焼失現在手元にありません、あれは伝記ではなく一種伝記小説、作為と荒唐無稽の記述に過ぎません。…その岩崎氏は折りあらば吟香の正伝を遺したいと申されました」。また「…NHK第二放送にて…一龍斎貞丈の講談岸田吟香が五回に亘って放送されましたが岩崎氏のものに依って居り事実と相違する所多く甚だしく不愉快でした」とも述べられている。
資料入手の難しさについて、「吟香の資料は今では壊滅散逸して蒐集には定めて御苦心であったろうと察しますが、郷里垪和村では殆ど手に入らないと存じます」と述べられ、「吟香の子供は7男5女ではなく、7男7女であること」、「正太郎は誤りであり庄太郎が正しいこと」、などたくさんの貴重な情報提供があった。
文末に「望むらくは更に新資料を加えて追補改訂、より完全なものをお書き下さい」と結ばれている。
昭和36年8月末に吟香の孫の岸田鶴之助氏(岸田劉生氏の長男)が杉山宅を訪問しているが、この時この岸田準一氏も一緒に岡山に来る予定であったが、何故か杉山宅には立ち寄っていない。この後二人は倉敷で合流し旅行を続けている。
◎「良心と魂の質入れ」に見る杉山栄の矜持
昭和40年12月発行の岡山郷土誌「生活」に「質入れの話」と題する一文を載せているので一部をそのまま引用する。
「戦時中、私は新聞社に務めており、編集局長だとか、主幹だとか、副社長だとかの役職に就いていた。そして内心戦争には大反対であり、事実また好戦的な文章はただの一行も書かなかったが、さりとて真正面から軍部や特高警察に反抗して反戦を主張する勇気がなく、強権を持つこれらのものにずるずると引き摺られて終戦を迎えた、謂わば、戦時中、私は良心と魂とを質入れしていたようなものである。その結果、終戦直後、連合国は一定規模の新聞社の幹部を一斉に公職追放処分にすると定めたため、私は数年間浪人せざるを得なかった。その節、前記の木村毅くんは、『君は別だ、進駐軍の幹部に懇意な者がいるから、君のことを詳細に説明して追放を解除させてやる』と度々言って来てくれたが、私は『飛んでもない、私は、当然、魂の質入れの償いをしなければならぬ』と言い、木村君の折角の温かいアドバイスを拒んで謹慎を続け、後日、木村君から『君はよくよくの馬鹿正直者だな』と言われたものである」。
これが杉山榮の真骨頂で、ジャーナリスト・新聞人として、他人にも厳しかったようだが、自分自身、己にはもっと厳しく身を律していた。
木村毅氏は文人の追放解除運動を展開しており、事実吉川英治氏追放解除の請願もしている。そのお陰か吉川氏は追放を免れている。
◎県知事選出馬要請
父幹一の事を「政治狂い」と評したのを聞いたことがあるが、子供の頃から政治活動に奔走する父親の姿を見て、本人は極度の「政治家嫌い」になったのだと思う。
岡山の言論界・報道機関のリーダーとして後に公職追放を受ける身の榮を、革新陣営はリベラル派の代表格とみていた様で、官選知事から民選知事に代わる初めての知事選挙が予測された時、革新陣営は最有力候補として榮に出馬要請し、「榮を口説くために二日間に亘り杉山宅に座り込み、強引に口説いたが、榮はこれに応ぜず断り続け、革新陣営はついにこれを諦めた」と、昭和22年6月号月刊岡山(合同新聞社発行)に掲載されている。宜なるかなで、これは榮の生来の政治嫌いのなせる業であったと思う。
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