岡山県北情報⇒
斎藤塾・斎藤玄立!
○○○○

斎藤玄立塾(さいとうげんりゅう)1821〜1902
斎藤玄立は福渡村御船清兵衛の長男として生まれ、苫田郡小田村(現鏡野町)の宮司斎藤藤十郎の長女津留と結婚し齋藤と改性した。
播磨の儒医前田新に入門、のち長崎に遊学し叔父の石坂桑亀から西洋医学を学び四国の高松藩の侍医となるが、母の郷里の美作国久米北条郡中垪和谷村栃原340番地に帰り医業を開き、その傍ら、齋藤塾を開き多くの門弟を育てた。

斎藤玄立
斎藤家屋敷跡

教師、斎藤玄立、漢学習字を教授し弟子常に50〜60名を下らず。安政元年(1854)頃より明治6年(1873)頃まで続いた。
岸田吟香も玄立に学んだ一人である。明治35年(1902)年8月31日死去、81歳。

斎藤玄立
栃原地区全景

★吟香が19歳で江戸に出ようとしたとき、長男であることを理由に両親から強く反対されていたが、吟香の伯母壽(とし)の嫁ぎ先美作国久米南条郡別所村の光元吉左衛門吉謙(よしかね)が吟香の両親を説得し学問修業のため江戸へむかうことができた。
★安政2年(1855)初冬、吟香22歳のとき、持病の脚病(かっけ)が悪化し失意し帰郷したが、施療養は主として光元家に奇寓して行った。
一年後病が癒えて再び江戸を志すもの両親の許しが出ず、伯父辨次郎義?の執り成しでなんとか大阪までの許しが江戸へ出た。その後、江戸へ出て藤沢東該(儒学者)の門下に入った。
★岸田吟香から弟助三へ送った手紙の大要。
明治16年(1883)郷里 先月十月十九日に坪井でお別れしてから、落合に一泊し三十日に旭川を舟で下り栃原から、斎藤玄立光之吉殿、御手倉から奥村重遠さんが乗り込み賑やかになり両側のふう景色に尉められて五時過ぎ岡山に着き、そこから汽船に乗ったがその夜大風のため牛窓に停泊し、三十一日朝になり錨をあげて、一昨日午後ようやく大坂に着いたところです。途中一日をむなしく過ごし昨日は、忙しく今朝まで大坂の用事をすませただいま神戸まで出たところ、上海行の郵船名護屋丸も未だに着港しない、今朝から天気が回復し上海もおだやかなことであろうと思われます。
この時に吟香50歳 玄立62歳
★岸田吟香と斉藤玄立の出会と再会
出会:安政2年(1855)22歳吟香は帰郷時
再会:明治16年(1883)50歳吟香は帰郷時

斎藤玄立
昭和26年(1951)頃の栃原地区風景

【参考文献】
久米郡誌 1927年
杉山栄著「岸田吟香略伝」 1951年
杉山栄著「先駆者岸田吟香」1952年
土師清二著「吟香素描」東峰書院1959
久米郡医師会誌 1972年
御船恭平著 「名医石坂家三代」1968年
石田農夫男著「籾村炉辺話」1980年
旭町立第三小学校創立百周年記念誌 1976年
旭町教育委員会 「岸田吟香伝」1989年
建部町誌 1977年
旭町誌 1999年
写真家山崎冶雄 著作権山崎泰雄 1951年
岸田吟香記念会館藏 岸田吟香の手紙
津山市観光協会・岸田吟香をかたる会「時代を先取りした作州人写真で見る岸田吟香」作
作州人に残る足跡 2017年
草地浩典著(くさちこうすけ)『岸田吟香雑録」2019年
栃原 高瀬舟歌動画編集 2020年

斎藤玄立
令和2年(2020)栃原地区の現在、齋藤家屋敷跡は昭和29年にダムの底に沈みました

斎藤塾・斎藤玄立墓誌を解読!

久米南条郡福渡村(現岡山市建部町)出身の斎藤玄立医師をご存じですか。彼は播州前田儒医の下で医学を学び、後長崎で叔父の石坂桑亀(足守藩の侍医・久米北条郡境村〈現美咲町〉出身)から西洋医学を学ぶ。
その後、母の郷里久米北条郡垪和村栃原(現美咲町)に帰り開業。
かたわら寺子屋「斎藤塾」を経営し、学問に励む多くの門弟を世に送り出した。
その一人だった吟香らが出資し、明治36年8月斎藤玄立塾長の墓石を建てた。
斎藤家の墓地は、以前栃原にあったが、昭和29年旭川ダムが完成したことにより湖に沈んだため現在の場所(建部温泉付近)に移された。
当時、医師で塾を経営していた玄立はどういう人だったのか、吟香を語り継ぐ会のメンバー、光元、甲元、斉藤、山本の4人は10月3日墓誌の拓本を採った。
不明なところもあるが解読が終わったのでその全文を紹介する。
解読は三好尚子氏(津山市)にお願いした。

解読文(原文は別途掲載)
斎藤先生は、始めは医者として知られる。
人柄は穏やかで慎み深く、飾り気のない心の広い人であった。
初め郷里を出て学んだのは、播磨の儒者で医者であった前田新先生のもとであった。学を終えて郷里に帰り、ここに開業された。
その傍ら、塾を開き子弟に学問を授け、又詩文に巧み、書もよくされた。その上、医者として世の人を救われた。
(董(?)にあって林の誉れを奉げる) 性格は、物事に拘わらず名聞や利欲を考えず、思い通りにならないことが(?)あっても平然とされていた。
八十一才で病没され栃原に葬られた。
嗣子直愿(よし)氏は先生の碑を建て、私に先生についての梗概と碑文を書くことを請われた。
その碑文に言う、学を好み身を立てることは徳である。
広く医術により人を救うのはその恩徳である。(大(?)いなる根は三世に続き)実に祖風を頼(たよ)る。
門人岸田吟香謹んで碑文を作る。孝孫哲雄書く

斎藤玄立墓碑から拓本を採る⇒..こちら

斎藤玄立
斎藤玄立
斎藤玄立
斎藤玄立
岡山県北情報掲示板 mail:info@owow.jp