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吟香の津山での 5 年間(弘化 4 年〜嘉永 5 年、1847 〜 1852)
吟香の開いた私塾。善応寺(ぜんのうじ)(天台宗、龍頭山)
吟香は旧高田村(津山市大篠 1674 番地)の善応寺において私塾を開いていた。地元の青年に四書五経を講じていたが、そのことに関して善応寺の境内に立て看板がある。その塾は茅葺の小屋だったがいまは残っていない。伝承によると、塾生が寺の廊下を拭いていたが戯れて雑巾を天井に投げつけた跡が残っていたそうである。
「弘化四年〜嘉永五年」(一八四七〜五二)年岸田吟香私塾の跡(きしだぎんこう)」
・四書、(儒学で尊重する 4 つの本、大学、中庸、論語、孟子)
・五経、(儒学で尊重する 5 つの教書、易経、詩経、書経、礼経、 春秋)
・漢学、(中国の古典、特に儒学についての学問)
・洋学、(江戸時代にはいってきた西洋の学問、語学)
・国学、(わが国の古典を研究して、古代の思想、文化を明らかにする目的の総合的な学問の体系、(江戸時代におこった)
・日本外史、文政 10(1827)年著作の頼山陽の歴史書。
さまざまな探求にもかかわらず吟香の津山での生活の拠点がどこであったかについては十分解明できなかった。世話になったという八木家はもちろん、かつて学んだ漢学者のところで学僕的な生活をしていた時もあったと思われる。また善応寺の私塾でいくばくかの収入も得ていたであろう、吟香の日記に「われ作州にて山西という処にいておりし時」日蝕をみているが一時期嘉永 5(1852)年に山西に住んでいたとの伝承もある。
津山での 5 年間の生活で吟香は儒学、剣術、芸術等の学問の基礎的素養を身につけ江戸に出て大きくはばたくことになる。人生のもっとも多感な時期に、多才な人物との出会いがその基礎を築いたのであった。
次の人々がおもな師、交友といわている。
・永田孝平(?〜明治 10 年、?〜 1879)吟香に漢学を教えた。
・上原存軒(文化 9 年〜明治 9 年、1812 〜 1872)吟香に漢学を教えた。
・矢吹正則(天保 4 年〜明治 38 年、1833 〜 1905)地方政治家、地方史家、吟香に剣術を教えた。
・小原竹香(幕末〜明治中期)徳森神社の神官、書家、短歌に優れていた。吟香の師。
・飯塚竹斎(寛政 8 年〜文久元年、1796 〜 1861)南画家、山水画に優れていた。
・植原六郎左衛門(文化 16 年〜明治元年、1816 〜 1868)皇朝神征水軍神伝流第十世宗師、兵法家、勤王志士、吟香が「吾が師匠」とよんでいた。
・塘雲田(芳草)(天保 6 年〜明治 12 年、1835 〜 1879)画人、勤皇の志士、吟香によると竹馬の友と言う。
・吟香が津山との結びつきを終生大切に思っていたことは「作州には竹馬のともだちがおほくある。もちろん兄弟もあるなり、竹香の詩も竹も簡斎よりよくできる、竹斎はしんだであろう・・半眉先生ハわがおしせうさんだからわすれハせぬが・・・ことし日本へかへッたらあひにいきたいもんだ」、(呉淞日記、慶応 3(1867)年 1 月 8 日)と述べている。
・安政 5(1858)年塘芳草宛にあてた手紙で「竹香先生御健佳に候や」と安否を尋ねている。
・また、明治 5(1872)年の帰省の際に津山に出て交流のあった興津實(鶴田藩士)、塘芳草、筏屋(いかだや、境町)、江見屋(西新町)などの人たちと再会して産業などに関していろいろ話し合っていることからも窺える。
・仁木永佑が明治 24(1892)年 1 月 19 日吟香を訪ねて夜更けまで談笑しているし同年 1月6日付けで吟香が賀状を出している。
万延元(1860)年ごろの吟香の動静
平成 28(2016)年 5 月に光吉一郎さん(鏡野町真加部)からご連絡をいただき、甲元正美さんと光吉一郎さんを訪ね貴重な話を窺った。それは次のような内容である。
・下山一(津山市高倉、光吉一郎さんの父、下山家 7代目当主、高倉村村長、応召朝鮮派遣、農業委員会長、善応寺檀頭)の『和寿禮那具淺の記録』(わすれなぐさ、日記の記録、昭和 35(1960)年)によると万延元(1860)年 3 月 18 日「菅田(すげた)観音堂に日本新聞界の元祖岸田吟香仮偶の頃哉」(吟香 27 歳)の記述がある。当時下山家は家を新築中のため吟香を直接下山家に泊めることはできず、仕方なく観音堂に泊めたという。食事などは下山家が提供した。その観音堂は下山家から約 100 メートルのところにある。当時の観音堂は高床式で蟻地獄がいた。近年の広戸台風で大破し、現在の観音堂は新しく再建されている。
安政 7(1860)年 3 月 3 日は安政の大獄で知られる井伊直弼が桜田門外で暗殺された日である。藤森天山(弘庵)の建言を代稿したなどの嫌疑で追われていた岸田吟香が 3 月3 日以降ひそかに江戸上野寛永寺のほとりにいたと言われているが、追われる身であった事に変わりはない。吟香はその後、万延 2(1861)年 1 月には上野に住んだという記述がある。従って、吟香が山西(高倉)にいたと考えられるのは 3 月 3 日以降から翌年の 1 月までの間である。吟香がひそかに以前暮した美作の地に一時期身を置いたとしても不思議ではない。以前にも、嘉永 5(1852)年 11 月 1 日に山西に身を置いたといわれている(日食を見ている)。まだ大した成果も上げていない身の吟香をいわばかくまったとも考えられる動きは、吟香が善応寺の私塾などを通じてこの地と深く結びついていたことを示すものといえよう。これは今後検討されるべき大変重要な事項である。
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