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作州人吟香の足跡記

岸田吟香を語り継ぐ会
岸田吟香記念館提供

岸田吟香研究家
草地 浩典(くさち こうすけ)
岡山県津山市山北187-1
発行日 2019年12月吉日
自費出版 A4版、87頁


岸田吟香を語り継ぐ会
岸田吟香雑録著者 草地浩典氏(左)、光元正夫氏(右) (動画)

吟香は故郷と深くむすびつき、多くの人々に支えられ大業を成し遂げたことが改めて分かった。
まだ知られていない作州人岸田吟香の足跡をもう少し突き止め、さらなる研鑚を重ねていきたい

(1)吟香と光元家を結ぶもの(難波茂野さんの手紙より)
『吟香素描(土師清二・S34・東峰書院)』104 ページに、当時の吉備郡大和村西字大沢(現吉備中央町西)の難波茂野さん(明治 11 年〜昭和 33 年、1878 〜 1958)が土師氏に次のような手紙を送っていた記述がある。
それによると「わたくしの父光元東伯(安政 3 年〜明治 43 年、1856 〜 1910)は、東京銀座 3 丁目の吟香の宅で、伊藤博文と吟香と 3 人で会食したことを、よく話していた。
叔父の武雄(万延元年〜明治 41 年、1860 〜 1908)は上海の吟香の楽善堂の支店長であった。
わたくしも吟香の歓迎会が津山であった時列席した。
父と吟香と 3人で、むさしの旅館に 1 週間ほど滞在した。
そのころわたくしは19 歳の娘だった。
吟香の両親は吟香が長男だったため『江戸になどに行かさぬ』と言っていたのを、わたくしの祖父光元吉左衛門義謙(文政 11 年〜明治 40 年、1828 〜 1907)がわたくしの実家(久米郡久米南町竜山村別所の光元家)から旅立たせたので、吟香はそのことを忘れず、祖父や父を東京に呼んで歓待し、東京日日新聞や精リ水を始終送ってきた。
吟香の書もあり古い写真も秘蔵している」という内容であった。

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吉備中央町西 難波茂野さん

光元家には吟香の伯母壽(とし)が嫁いでいた。
壽の墓誌によると(元治元年 12 月 26 日寂岸田助左衛門長女、 正六位勲 5 等、岸田吟香伯母 66 歳、久米郡垪和村(寛政 11 年〜元治元年、1799 〜 1864)となっており、光元辨次郎義榮(寛政 3 年〜元治元年、1791 〜 1864)の妻である。
岸田吟香は 12 歳から 2 年間坪井の大庄屋安藤善一(簡斎)のもとで学僕として過ごし、

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別所 屋号乢 光元家の庭大漁鯉

その後、5 年間津山で研鑚を積み、江戸へ向かったのは嘉永 5(1852)年の暮で 19 歳の時である。江戸では津山藩の儒者の昌谷精渓の門に入った。
しかし、吟香は安政 2(1855)年22 歳の初冬に持病の脚気が悪化して一時故郷に帰らざるをえなかった。
その時、主に竜山村別所の光元家で養生している。おもわぬ挫折であった。
この時「うぐひすもいまだ泣かねバうめの花さきにけらしも時まちかねて」「岸生岸生、学剣学書無一成」 の歌と漢詩を残して、剣を学び書を学んでもひとつとして満足するものにはならなかったと無念さを述べている。
1年後の安政 3(1856)年 23 歳で病が癒えて再び江戸を目指すが両親の許しがでなかった。
しかし伯父や伯母の執り成しでようやく大坂まで出ることができ、そこで藤沢東該(儒学者)の門下に入った。
緒方洪庵の適塾にも出入りして蘭学を学び、西郷吉之助(西郷隆盛)や桂小五郎(木戸孝允)とも交流したといわれる。
安政 4(1857)年 24 歳の 5 月下旬、会津藩士南摩羽峰が大阪に立ち寄つたので吟香は彼に従って江戸へ出て藤森天山(尊皇攘夷派)の門に入ったという経緯がある。
◆(『衛藤審吉著作集第 7 巻』)、(『昭和女子大学近代文学史料研究・外国文学篇第百三篇、昭和 47(1972)年』)などによると洪庵の適塾に出入りしたとあるが、諸説あり洪庵との接点に言及していないものもある。
◆平成 23(2011)年 2 月 29 日に難波家(茂野さんの嫁ぎ先)に電話し、さらに平成 23(2011)年 3 月 29 日、難波家を訪ねて難波登喜子さんよりお話を窺った。
難波茂野さんは、昭和33(1958)年に 81 歳で亡くなっていた。
家人によると茂野さんは折にふれて吟香のことをよく話していたそうで、特に「横浜新報・もしほ草」や「精リ水」のことが中心だったという。
茂野さんはいろいろ書くことが好きで、以前当地の婦人会長をしていたこともある。
茂野さんが妹の西山須美子さんに宛てた年賀状は大変達筆である。
また、68 歳の時には鬼子母神の絵を描いている。
◆平成 23(2011)年 12 月 18 日、茂野さんの子息の難波利夫さん(元日本大学教授)の妻静子さん(東京在住)に電話して聞き取ったところ「吟香のことはよく聞いている、劉生のこともよく聞いている。
岡山で牧師をしている人がある。吟香と関係があると思う。
光元家が吟香を江戸に行かせたと聞いている」と話された。牧師(キリスト教)というのは布下耕讀(総社市三須)のことである(美咲町栃原大瀬毘岸田家の出身)。茂野さんは岸田尚さん宅へも何回か訪れている。
*難波静子さんの聞き取りに関して、故人となられた板野幸子さん(静子さんの娘で、茂野さんの孫)に大変ご尽力いただいた。劉生と血縁関係にある布下満さんに関する新聞記事をお送りいただいたり、東京の難波家との連絡の手配等をしていただいた。
ご自身も岸田吟香や劉生に関してもっと探求したいと意欲を示されていただけに大変残念である。
ご冥福をお祈り致します。

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前列左から叔父源吾の妻で光元千代、弟の敏男、妹の神崎美香
後列左から妹の西山須美子、弟の光元正伯、叔父の池田吉雄

*吟香が江戸に出るに際しての苦悩を多くの文献ではさらりと書いているが次のような具体的な文献があった。
「吟香は遂に無断家出を決意し親不孝の罪を自覚し、別所村の光元家に嫁いでいる伯母を訪ね胸中を打ちあけ両親に伝言を依頼して別れを告げ、鶴田(たずた)から高瀬舟に乗って江戸に向かったのは嘉永 3(1850)年吟香が 18 歳の時であった」とある(『籾村炉辺話』)石田農夫男著、昭和 55(1980)年 5 月 27 日吟香の苦悩の船出を物語っている。

籾村炉辺話
岸田吟香を語り継ぐ会
『籾村炉辺話 地名と伝説』
―地名と伝説― 昭和55年5月27日発行
編著者 石田農夫男 1914〜2004
岡山県久米郡久米南町上籾1620

籾村炉辺話の原文抜粋
? 別所村と岸田吟香と石川少将(別所)
「別所」は神目中村から慶安2年(1,649)に分離して別所村と称したが、平安末期神目中村の開拓後に新しく低級武士が開いた所で、別所とか別保とか別府の地名の開拓地は各地に多く、追加して開拓した所の事である。
竜野藩脇坂預所の別所村庄屋光元家と、明治文化の先覚者として数々の功績を残した岸田吟香とは濃い親類であった。
岸田吟香は久米郡垪和村中垪和谷(旭町栃原)で農業兼酒造業の岸田秀徳の長男として天保4年4月8日(1,833)に生まれ幼名は太郎、後に銀二郎と改称し7人の弟妹があった。
幼少の頃から頭脳明晰で奇智に富み向学心に燃えていたので、津山藩の漢学者上原存軒の門人となった。
時あたかも尊王攘夷が国内津々浦々で論議され、鎖国の夢を破って黒船が来航して国内騒然としていた。
若い吟香は田舎でじっとしている事が出来なくなったが江戸へ行くことを両親が強く反対するので悶悶の日を送っていた。
彼は「男児志を立てゝ郷関を出づ学若し成るなくんば死すとも還らず骨を埋む豈ただ墳墓の地のみならんや人間到る処に青山有り」と考え、御津郡円城村円城寺(加茂川町)に参詣し、寺の柱に次のような意味の落書を残した。
(我功成り名遂ぐるに非ずんば、再び此の地に来らず)
吟香は遂に無断家出を決意し親不孝の罪を自覚し、別所村の光元家に嫁いでいる伯母を訪ね胸中を打開け両親に伝言を依頼して別れを告げ、鶴田から高瀬舟に乗って江戸に向ったのは嘉永3年(1850)吟香が18才の時であった。
江戸に出た吟香は藤田東湖等と親交があり、その後我国最初の新聞を発行し、和英辞典を出版し、明治7年4月台湾討伐には西郷従道に従い初の従軍記者として活躍し、又目薬「精リ水」を発売し中国大陸で活躍するなど数々の功績を残し、明治38年6月7日年令73才で歿し特旨を以て従6位に叙せられている。
陸軍少将石川潔太は安政6年6月23日石見国浜田城下(島根県)に生れ、8才の時両親と共に福田上村(久米町)に移住し、北条県師範学校を卒業後、中籾村の習慣小学校(竜山小学校の前身)に奉職したが、17歳の潔太は青雲の志強く在職僅か5ヶ月で退職し軍人を志願して教導団を経て陸軍士官学校を卒業した。
明治24年5月大尉の時特務機関に属し、支那大陸に渡って「河原彦太郎」の変名で日清戦争前の清国の諜報活動に奔走し、当時久米郡出身の先覚者であり実業家の岸田吟香と親交厚く、清国各地の情報を入手して帰国後参謀本部に出仕した。
当時の吟香の書簡や資料を現在東京在住の少将の遺族が保存している。
岸田吟香と石川少将の出会いも、唯久米郡出身というだけでなく、竜山村の風土や別所村光元家関係が2人を密接に結びつける深い因縁があったと思われる。
社会人として最初に生活した竜山の土地や人情は石川少将には印象深いものがあつたであろう。
昭和7年5月30日、陸軍少将従4位勲3等功3級、石川潔太は74才で東京都杉並区上萩2-13-16で永眠された。

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旭川 高瀬舟 著者 石田農夫男「よもやま話】より転載

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辰太郎(吟香)が江戸に向かう 鶴田から高瀬舟で岡山〜

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旭川 鶴田

◆武蔵野旅館は津山市戸川町 55 番地にあり、石原清吉が経営していた。 当時としては珍しい 3 階建ての旅館であった。
吟香が明治 5(1872)年に帰郷した際 5 月 4 日、5 日にも武蔵野旅館に泊まっている。
吟香と深いつながりのある白岩龍平も明治 30(1897)年 1 月9 日に武蔵野旅館に泊まっている。
大正 11(1922)年からは神谷印刷所になっている

岸田吟香を語り継ぐ会 当時では珍しい三階建て
明治時代の武蔵野旅館
写真で見る岸田吟香―作州に残る足跡―より転載

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*岸田吟香余滴
なお、難波茂野さんは紅白の餅一かさねを重箱に入れてわざわざ山陽新聞社を訪れ土師氏に渡そうとしたが不在で会えなくてがっかりした。
それを知った土師氏は早速返事を書き「お餅はいただかなくても、いただいた以上にありがたいと思います」と返信した。
著者と資料提供者との微笑ましい一コマである。(昭和 28(1953)年 8 月 9 日山陽新聞)
◆土師清二(はじせいじ)(明治 26 年〜昭和 52 年、1893 〜 1977)大衆小説家、邑久郡国府村に生れる。
母親の生地土師にちなんで、ペンネーム土師清二となる。山陽新聞社会部記者、朝日新聞(大阪)、報知新聞等の記者を務めた。昭和 34 年『吟香素描』を著した。
◆吟香が明治 30(1897)年に帰省した際に岡山市の客舎で次のような揮毫をしている。
 丁酉小陽春題於。
 岡山。認 真 求 是
 山陽新報主筆
 吟香岸国華。
吟香は明治 30(1897)年 11 月(旧暦 10 月)岡山で山陽新報主筆のために「認真求是」と書き、津山の旧友の印章店主のためには「三省堂」と揮毫している。
いずれも丁酉の年号が記されていて吟香が明治 30 年に帰省したことを示す資料である。
当時の山陽新報の主筆は明治 27(1894)年に主筆となった長沢説(別天)で、東京帝大に学び、米国に留学、帰朝後政教社同人として雑誌『日本人』に執筆していた。
明治 31(1898)年 8 月東京朝日新聞に移った。(『山陽新聞百年史』昭和 54 年)

(2)光元家(久米郡久米南町別所)を訪ねて
平成23(2011)年10月15日、津山朝日新聞の甲元正美さんと光元正夫さん宅を訪ねた。
光元正夫さん、光元文さん、西山英治さん、光元陽一さんと正夫さんの奥様にお会いした。
難波茂野さんや光元家について貴重な話を窺うことができ、写真その他を拝見し光元家の墓地にも案内していただいた。
ここでは2つの墓誌などを紹介する。

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屋号 乢(たわ) 光元家(現在は江原宅)

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◆光元彌兵衛當孝(宗家)の墓誌。(久米郡久米南 町別所)
君名當孝字彌兵衛号泰山幼名藤蔵父義詮母渡邉 氏文化七年三月二八日生於美作國別所 村君為人豪放有英?気年十八継家為別所村里正兼為傍近三村里政(里正)及維新後又攝川口村里正累遷戸長当郷村局前後四十九年皆有成績明治十五年十一月八日病没享年七十三配矢木氏有一男三女後配平井氏有子女五人長子義信嗣家 明治三七年四月、 世姻勲六等、岸田吟香敬書。

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墓誌の意味。
君の名は當孝、字名は彌兵衛、号は泰山と言う、幼名は藤蔵である。
父は義詮、母は渡辺家から来ており文化7(1810)年に生れた。
18歳で家を継ぎ別所村のためによく働いた。
また、別所村里正の他に近隣三か村の里政(里正)も兼ねた。
維新後は川口村の里正となりさらにこの別所村の戸長を務め前後49年間村政にすぐれた功績があった。
明治15(1882)年11月8日73歳で逝去した。前妻は矢木家からきており1男3女をもうけた。
後妻は平井家からきており5人の女子をもうけた。
そして、長男義信が家督を継いだ。明治37(1904)年4月、勲六等、岸田吟香が墓誌を書いた。
吟香が逝去したのは明治38(1905)年6月7日72歳であるから、 墓誌を書いたのは逝去の前年である。
*里正、戸長、などは今の町長、村長などの行政官に当たる。
◆光元武雄(東伯の弟)の墓誌。
君姓光元氏名義貴号冠英通称武雄父名義謙母美甘氏君其次子也以万延元年二月塑生資 性慧敏初従育英後航至上海在吾楽善堂幇理商務留数年頗遠其地語言尋奉職大阪府及日 露役起徴為陸軍通報官以功叙勲七等賜瑞寶章後復原職前後専掌象□之事明治四十一年二月十三日病没年四十九配美甘氏有三男三女二男二女夭男嗣女滴池田茂實余 輿君有世姻而交尤久因誌其墓上。
岸田太郎撰
牧馬書
光元淺野建之

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墓誌の意味。
君の姓は光元。名は善貴。号して冠英といい、通称は武雄。父の名は義謙。母は美甘氏。君はその2男である。
万延元(1860)年2月に生まれる。
性格は鋭敏で、成長して後上海に渡って、楽善堂で商務を補佐し数年留まり、その後大阪府に奉職した。
日露戦争が起こると徴兵され、陸軍通報官の功績により勲七等に叙せられ、瑞宝章を賜った。
その後、前の原職に復帰し専ら象□の事を掌した。明治41(1908)年2月13日に病没。年は49、妻は美甘氏。子供は3男3女。2人の男の子と2人の女の子は夭折した。
男(あきら)は家を継ぎ、女は、池田茂に嫁いだ。実に余興。君とは姻があったので付き合いがあった。
尤もそれについては墓上にしるす。
◆岸田太郎は岸田助三(吟香の三弟)の子で楽善堂上海支店で書籍の取次ぎ等にあたった。
昭和4(1929)年大阪で病死

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(『商工博覧絵』より転載)

◆楽善堂・・明治8(1857)年吟香が銀座2丁目1番地(のち2丁目11番地)に精リ水、石鹸、薬品、書籍の販売のため楽善堂を建てた。
◆楽善堂上海店・・明治13(1880)年吟香は上海に分店を開設した。
◆光元東伯(難波茂野の父)は「戸長、光元東伯、第十七中学区習慣小学校長兼務申付候事。  明治十一年十二月二十四日。岡山県、?」の辞令を受けている。
当時久米南条郡第九部戸長役場は光元東伯邸に置かれ、東伯は別所村、下籾村、中籾村、上籾村戸長などを歴任している。
明治43(1910)年には耕地整理組合を設立し舟木谷池、勝田坂池の開発に取り組み約20町歩の水田開発にも尽力した。

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除幕式 整地碑 1950年

◆陸軍少将石川潔太(浜田藩士)(安政6〜昭和7年、1859〜1932)は、明治24(1891)年大尉のころ特務機関に属し中国大陸に渡り、河原彦太郎の変名で諜報活動に奔走し、岸田吟香とも親交があり、当時の記録や書簡が残っている。
おそらく情報収集の関係と思われる。
のち、大正7(1918)年山本農学校の校長を務めた。
(『母校の足跡竜山小学校』 石田農夫男)。

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陸軍大尉石川潔太「むかし神代」より転載

◆吟香は安政3(1856)年、病(脚気といわれている)のため帰郷したとき、光元家でも養 生していることなどから深い結びつきを窺わせる。
また、光元家と磯尾の難波家(吟香の妹の小芳と後妻に妹のお梅が嫁いだ)とは親戚関係にあることも分かった。
安藤家はもちろん岸田家、光元家、磯尾の難波家、八木家は深い繋がりがあり、吟香が多くの人々に支えられて大きく羽ばたいたことを強く感じた。
約2年前難波茂野さんのことを『吟香素描』で知って以来懸案となっていた、茂野さんや光元家に関して貴重なことを知ることができて大変ありがたかった。

吟香に関して光元正夫さんは「私は物心ついた頃からどこの誰かもわからないままに親 から岸田吟香の名前は聞いていました。
そして小学生の時の教科書に出ていたのが麗子像 でした。
以来、半世紀経ち、地元の小学校校長をされていた地元出身の石田農夫男先生が、 地元の歴史等について詳細な8冊の本を出版され、親しみをもって読んでいるうちに関心 を持つようになりました。
その中には先祖のこととか吟香との繋がりについても書かれて あり何回も繰り返し読みました。
その後、草地先生が訪ねてこられてから、吟香の関わる墓誌について拓本を取り解読を依頼したり謄本も入手しました・・・・・・・墓に吟香の文字があることは子供のころから知っていました。
全国的に知られている人で、名誉に思っています。今後も大切にまもっていきたいです」と述べている。
これらのことに関して平成28(2016)年5月20日津山朝日新聞に「吟香の署名、墓誌に残る久米南町別所の光元家」と題してその大要が掲載された。

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久米郡久米南町別所地区

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