籾村炉辺話の原文抜粋
? 別所村と岸田吟香と石川少将(別所)
「別所」は神目中村から慶安2年(1,649)に分離して別所村と称したが、平安末期神目中村の開拓後に新しく低級武士が開いた所で、別所とか別保とか別府の地名の開拓地は各地に多く、追加して開拓した所の事である。
竜野藩脇坂預所の別所村庄屋光元家と、明治文化の先覚者として数々の功績を残した岸田吟香とは濃い親類であった。
岸田吟香は久米郡垪和村中垪和谷(旭町栃原)で農業兼酒造業の岸田秀徳の長男として天保4年4月8日(1,833)に生まれ幼名は太郎、後に銀二郎と改称し7人の弟妹があった。
幼少の頃から頭脳明晰で奇智に富み向学心に燃えていたので、津山藩の漢学者上原存軒の門人となった。
時あたかも尊王攘夷が国内津々浦々で論議され、鎖国の夢を破って黒船が来航して国内騒然としていた。
若い吟香は田舎でじっとしている事が出来なくなったが江戸へ行くことを両親が強く反対するので悶悶の日を送っていた。
彼は「男児志を立てゝ郷関を出づ学若し成るなくんば死すとも還らず骨を埋む豈ただ墳墓の地のみならんや人間到る処に青山有り」と考え、御津郡円城村円城寺(加茂川町)に参詣し、寺の柱に次のような意味の落書を残した。
(我功成り名遂ぐるに非ずんば、再び此の地に来らず)
吟香は遂に無断家出を決意し親不孝の罪を自覚し、別所村の光元家に嫁いでいる伯母を訪ね胸中を打開け両親に伝言を依頼して別れを告げ、鶴田から高瀬舟に乗って江戸に向ったのは嘉永3年(1850)吟香が18才の時であった。
江戸に出た吟香は藤田東湖等と親交があり、その後我国最初の新聞を発行し、和英辞典を出版し、明治7年4月台湾討伐には西郷従道に従い初の従軍記者として活躍し、又目薬「精リ水」を発売し中国大陸で活躍するなど数々の功績を残し、明治38年6月7日年令73才で歿し特旨を以て従6位に叙せられている。
陸軍少将石川潔太は安政6年6月23日石見国浜田城下(島根県)に生れ、8才の時両親と共に福田上村(久米町)に移住し、北条県師範学校を卒業後、中籾村の習慣小学校(竜山小学校の前身)に奉職したが、17歳の潔太は青雲の志強く在職僅か5ヶ月で退職し軍人を志願して教導団を経て陸軍士官学校を卒業した。
明治24年5月大尉の時特務機関に属し、支那大陸に渡って「河原彦太郎」の変名で日清戦争前の清国の諜報活動に奔走し、当時久米郡出身の先覚者であり実業家の岸田吟香と親交厚く、清国各地の情報を入手して帰国後参謀本部に出仕した。
当時の吟香の書簡や資料を現在東京在住の少将の遺族が保存している。
岸田吟香と石川少将の出会いも、唯久米郡出身というだけでなく、竜山村の風土や別所村光元家関係が2人を密接に結びつける深い因縁があったと思われる。
社会人として最初に生活した竜山の土地や人情は石川少将には印象深いものがあつたであろう。
昭和7年5月30日、陸軍少将従4位勲3等功3級、石川潔太は74才で東京都杉並区上萩2-13-16で永眠された。
|