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ジョセフ彦記念会誌に語り継ぐ会の情報が

2023年12月12日、ジョセフ彦記念会誌第50号記念号が発刊され、ジョセフ彦記念会堀千枝子会長(埼玉県)から、この冊子が送られてきた。よく見ると、2022年11月播磨町で行われた新聞資料研究会第30回播磨大会に招待されたとき神戸新聞の記事や昨年10月14日美咲町旭町民センターで行われた秋の新聞週間特別企画「大講演会」の記録も載っている。
これからも、現在のマスメディアの基となった新聞の父「ジョセフ・ヒコ」や共に新聞誌づくり行った卵かけご飯の父「岸田吟香」を、全国の人に紹介していきたい。
※新聞の父「ジョセフ・ヒコ」(1837―1897)
天保8年(1837)8月、播州播磨国加古郡古宮村(現播磨町古宮)に生まれた浜田彦蔵。幼名を彦太郎という。13歳の時、知人の船「栄力丸」で航海中、大海原で暴風雨に遭い遠州灘で遭難、漂流後米国商船オークランド号に救助されアメリカに渡る。
嘉永7年(1854)、ボルチモアのミッションスクールで学んでいたとき、カトリックの洗礼を受けクリスチャンとなり、ジョセフ・ヒコと改名した。
安政5年(1858)、日本人で初めてアメリカの市民権を取得し、帰国後は横浜の神奈川領事館で通訳として働くが、文久3年(1863)9月辞職、ヘボンが住む外国人居留地で商売を始めた。ジョセフ・ヒコは、アメリカ滞在中、ピアス、ブキャナン、リンカーンの3大統領と会見している。
明治2年(1869)、大蔵省に勤務し大阪造幣局の創設に関わるが、明治30年(1897)12月、病に侵され東京の自宅で死去した。60歳だった。現在、アメリカ人として東京青山霊園外人墓地に葬られている。
※吟香とジョセフ・ヒコの関係
重度の眼病に罹った吟香は、津山藩・箕作秋坪に横浜の外国人居留地で施療所を開業していたアメリカ人ドクトル・ヘップバーン(通称「ヘボン」)を紹介され、一週間で完治したことからヘボンの医療技術に魅せられる。
早速、ヘボンの片腕となった吟香は、文久3年(1863)5月、宣教師で語学者でもあったヘボンから、アメリカの市民権を得たジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)を紹介され、心安くなった吟香はヒコから英語を教わる。
元治元年(1864)[慶応元年(1865)説あり]、横浜港に入港する外国船から英字新聞を入手していたヒコは、農家の生まれで武士、商人など経験し多彩な語学力を身に着けていた吟香に、日本で新聞を作ろうと持ち掛け、ヒコの秘書で駿河国(現静岡県菊川市)出身の本間潜蔵(清雄)も加わり外国の記事を抜粋した「新聞誌」を創刊した。
これが日本で初めての民間主導による邦字新聞となった。
新聞はヒコが翻訳、吟香らは執筆を担当したが、創刊したものの日本人は海外の情報など関心なく新聞は数か月で廃番となった。翌年この「新聞誌」は「海外新聞」と改題され再発行されている。

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