旧浜田藩鶴田藩
浜田市は島根県西部、昔の石見(いわみ)国の中心の町で、天然の良い港に恵まれ、水揚げ年間十万トンを越すほどの水揚げ都市、浜田高は野球でも知られている。
ここはもと毛利の藩領であった、慶長5年(1601)、こ毛利の滅封で一時天領なたったが、元和5年(1620)に吉田重治が入封、5万4百余石で浜田城を築いた。
それ以降二つほどの藩が動いたあと、天保7年(1836)、こ関東の館林から総平斉厚が入封した。
この松平の家系が作州の鶴田藩につながる。4代将軍家綱の弟の綱重の次男、清武が祖となった館林藩がつくられた、5代目が浜田ヘ転封しているが、館林は6万1千石、浜田はそれに足らないので作州久米郡内17か村を飛び領地として6万1千石にした。
作州と関係のはじまりである。
浜田藩は慶応2年(1866)、幕府の長州征伐に徳川として参戦したがあえなく敗れる、浜田城の落減(白焼退城)後、3500人が飛び領地としであった岡山県久米郡内に落ちのび、新しく鶴田(たづた)藩が誕生、明治4年(1871)の廃藩置県まで3年余の間続いた。
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