岡山県北情報⇒ |
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岸田吟香の生誕地 |
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<岸田家墓地>(岡山県久米郡美咲町栃原) |
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岸田吟香ゆかりの寺 |
宝寿寺前景(岡山県久米郡美咲町中垪和) |
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<円城寺>(岡山県加賀郡吉備中央町円城742番) |
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吟香と安藤家 |
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津山での学び |
津山の地で永田幸平や上原存軒に学ぶことになる。 |
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八木家について |
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<八木家>(岡山県津山市南新座) |
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光元家と吟香 |
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<光元彌兵衛當孝の墓誌> |
難波家との関わり |
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<難波家>(岡山県津山市中北上(磯尾1629番地) |
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吟香と親交のあった作州人 |
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津山での関わり 1 |
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津山での関わり 2 |
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【10月18日】アメリカ船、コスタリカに乗り、4 時出航 |
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武蔵野旅館 |
<武蔵野旅館>(岡山県津山市戸川町) |
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恒弘家と吟香 |
<恒弘家>(岡山県久米郡久米南町下弓削446-2) |
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吟香が美甘鶴大郎(作州福渡停車場前)に宛てた手紙で「弓削の恒弘利兵衛殿も相変わら藥を売っていらっしゃいますか。まずはじめによろしく申し上げてください」と書いてある。 |
岸田吟香顕彰会 |
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岸田吟香記念館 |
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<岸田吟香記念館>(岡山県久米郡美咲町西川1001-7) |
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【コラム】全国を黄福にした郷土の偉人 岸田吟香 |
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美咲町の卵かけご飯が全国的にヒットした理由のひとつとして、卵かけご飯を美咲流の物語にしたことが考えられます。 |
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明治五年の『帰省日記』〜明治5年(1872)4月23日から5月6日まで〜 |
廿三曰 これより作州の垪和へハ一日路なれども、備中備前におほく親類あり。 |
円地与四松「吟香の帰省日記について」(社会及国家 第235号 1935)『帰省日記』 |
塘芳艸: | 明治2 年(1869)10 月1 日11 等被召 海老原極人長屋 塘芳蔵 芳蔵・芳一茂太郎。字は土蘭、号雲田、通称芳蔵、天保8 年(1837)津山町嵯峨屋の三男。勤王の志厚く慶応3年(1867)7月「中山神社奉納文庫勧進」を行う。 |
明治4年(1871)7月「院庄造立神社之事趣」にも署名。 | |
明治2年(1869)藩士となり、5年(1872)1月開庁の北条県庶務課少属(12 等)。 | |
明治5 年(1872)10月「愛山神道碑文」出版物の墓城図を描いている。画は飯塚竹齋に学びのち田碕草雲に従う。 | |
明治12年(1879)の「岡山県人物誌 全」に「書・南画・塘芳・田町」と記されている。 | |
明治12年(1879)死去、45 歳(明治5年(1872)吟香37 歳 塘芳艸33 歳) | |
武蔵野旅館: | 戸川町55 番地 石原清吉 電話二六番【明治四十四年発行 津山案内広告商工人名記録】大正11 年(1936)現在の神谷印刷所の場所 |
興津實: | 元鶴田藩、藩士時代、首席家老尾関当遵が京都の本國寺で切腹した際にその介錯をした。文武両道にすぐれた人側御用人、明治5年(1872)1 月廃藩置県北条庶務出納主任に明治6年(1873)の血税一揆の際は大いに治安の為に活躍し、後、権参亊となり、更に長野県・新潟県等の内務官僚として才能を発揮した |
筏 屋: | 正平33 歳 家族6 人 (明治5 年(1872) 吟香39 歳 正平35 歳) |
江見屋: | 定吉23 歳 母43 歳 (明治5 年(1872)吟香39 歳 定吉25 歳)【明治三年 堺町人別改帳】(津山郷土博物館蔵)【明治三年 西新町人別改帳】(津山郷土博物館蔵) |
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『帰省日記』に関連した場所 |
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あとがき |
岸田吟香とふるさと作州との結びつきを求めて、関連のある方々を訪ねて取材させていただいた。 |
岸田吟香を語る会、草地 浩典・甲元 正美 |
【参考文献】 |
岸田吟香の紹介 |
岸田吟香(1833〜1905) |
岡山県北情報掲示板 mail:info@owow.jp |