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写真で見る・岸田吟香 岡山県美咲町

岸田吟香を語り継ぐ会
人の心豊かな人生岸田吟香
笑い文字作品
妹尾 美里

津山市観光協会主催、津山市、美咲町後援により「幸福仕掛け人! 岸田吟香の魅力 一「フォーラム」と『足跡めぐり」で綴る作州人一」と題したイベントが開催される運びとなった。
この冊子は、今まであまり知られていなかった取り組みのほんの―端に過ぎないことをご理解いただきたい。
この催しが契となって吟香の偉大さが再認識され、現代の我々が生きる一助になればと願うものである。

<時代を先取りした作州人>

写真で見る岸田吟香 一作州に残る足跡一
平成29年3月26日日曜日 於:津山鶴山ホテル
「岸田吟香の魅力」フォーラム(パネルディスカッション)
資料
≪共同出版≫
岸田吟香を語る会 草地浩典・甲元正美
公益社団法人津山市観光協会

<はじめに>
昨今、豊田市の「明治の傑人岸田吟香」の発刊をはじめ、東京と岡山で開催された「岸田吟香、劉生、麗子知られざる精神の系譜」展「岡山蘭学の群像、岸田吟香」など各種の催が行われていて、吟香のふるさと作州人にとっては大変うれしいことであった。
今回、津山市観光協会主催、津山市、美咲町後援により「幸福仕掛け人!岸田吟香の魅力 ─「フォーラム」と「足跡めぐり」で綴る作州人─」と題したイベントが開催される運びとなったことはこの上ないよろこびである。
この冊子は、今まであまり知られていなかった取り組みのほんの一端に過ぎないことをご理解いただきたい。
この催しが契機となって吟香の偉大さが再認識され、現代の我々が生きる一助になればと願うものである。

 岸田吟香の生誕地

岸田吟香を語り継ぐ会

<岸田吟香の生誕地>
美作国久米北条郡中垪和谷村大字大瀬昆(現在の岡山県久米郡美咲町栃原)吟香の生家(「先駆者岸田吟香」より転載)岸田吟香生誕地跡(岡山県久米郡美咲町栃原1684番地)岸田家は摂津の国(現在の大阪府)から天正年間(1573〜1591)に栃原に移住したと言われている。
屋敷名:よしきよ農家のかたわら、酒造業を営んでいた。吟香は天保4年(1833)4月8日生、父は秀治郎、母は小芳(およし)、五男三女の長男、その屋敷跡に「岸田吟香先生生誕之地」と記した標柱が建っている。

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吟香の生家
「先駆者岸田吟香」より転載

<岸田家墓地>(岡山県久米郡美咲町栃原)
生誕地近くの「とりくび」
吟香の父:秀冶郎 文久3年(1863)2月19日没 行年60歳
吟香の母:小芳  明治18年(1885)3月15日没 行年71歳 備中賀陽郡黒谷村 沼本勝左衙門二女 墓誌に「嫡男 岸田吟香謹書」とある。

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岸田家墓地

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岸田吟香生誕地跡

 岸田吟香ゆかりの寺

岸田吟香を語り継ぐ会 宝寿寺前景(岡山県久米郡美咲町中垪和)

<宝寿寺(天台宗)>(岡山県久米郡美咲町中垪和畝)
吟香の生家から約3キロ(標高約400m)の宝寿寺(寺子屋)で幼少年期を学んだ吟香は、大きく羽ばたき数々の偉業を成し遂げたのであった。
「大魚は小池に遊ばず」 これが吟香の口ぐせだったと伝えられている。

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宝寿寺内

<円城寺>(岡山県加賀郡吉備中央町円城742番)
提婆天護摩堂の白壁に「深山大沢必出龍蛇、垪和住人」吟香が大きく羽ばたく決意を示した落書きといわれている。
吟香の母小芳は備中国賀陽郡黒谷村、祖母は備前国御津郡加茂村三納谷の石井家の出のため円城寺をよく訪れたといわれている。

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円城寺

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吟香の落書き

 吟香と安藤家

<安藤家>
弘化2年(1845)12歳になった吟香は、出雲往来の宿場町でもある久米北条郡坪井下村の大庄屋・安藤家に学僕として寄宿した。
その頃の当主安藤善一(簡齋)は詩歌や書画を愛する文化人であった。
2年にわたり吟香の面倒を見た善一は、吟香をさらに学ばせるため津山に送り出した。
岸田家(庄屋)と安藤家(大庄屋)は同じ挙母藩で深いつながりがあった。
明治14年(1881)善一が上京して吟香宅に滯在した。
このとき画家に善一の肖像を描かせ、彼の人となりを述べたものである。

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安藤善一肖像画(安藤眞二氏蔵)

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安藤善一翁頌徳碑 明治14年9月7日(岸田吟香書)

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称念寺

 津山での学び

津山の地で永田幸平や上原存軒に学ぶことになる。
実はこの数年前の天保14年(1843)、津山藩によって町人教育を目的とした教諭場が城下の小姓町に設立されていた。
この教諭場の設立には町奉行であった稲垣武十郎が大きく貢献したが、設立時から講師に迎えられたのが永田幸平善教であった。
永田家は森家とともに美濃から移住し、のち松平家に仕官した。
4代目の省吾から学者となり、祖父有蔵、父永田敬蔵(号桐陰)の嗣であるが、実は敬蔵の子ではなく、津山中之町大年寄三室屋玉置家の4代目忠四郎の弟玉置恵吉の長男であり、親戚にあたる永田敬蔵の夫婦養子となり後を継いでいた人物である。
当時の幸平は市井に住む町儒者であったが江戸の古賀小太郎(号?庵)の内弟子という身分であり、稲垣武十郎の後輩にあたっていた。
稲垣武十郎は幸平の義父永田敬蔵の墓碑『永田桐?墓表』を撰してもいる。
この年の秋、その稲垣武十郎は没するが、東南条郡籾山村の村医師仁木永祐が稲垣武十郎死歿後、永田幸平(号半眉)に就いたことも知られている。
以後、永田幸平は明治に至って教論場が廃止されるまで、その講師としての任にあった。それゆえ、岸田吟香が"半眉先生"こと永田幸平に就いたのは津山藩教諭場ではなかったのかともと推察される。
多くの町人層の子弟がこの教論場に学んでいたのである。
さて、教論場設立以来、その講師としての任にあった。町儒者永田幸平を津山藩の儒者として召し抱えるよう提言『町儒者永田幸平登庸申立』したのは町奉行大村斐夫であり、それは文久3年(1863)8月5日であった。そしてそのことがなったのは翌年の元治元年(1864)11月2日のことで、身分は「大年寄斎藤孫右衛門厄介」から「御儒者被召抱、格式大役人、御擬作7石3人扶持、勘定奉行支配」となった。
明治9年8月調べの旧津山藩士族名簿に『幸平改め拙蔵』とあり、半眉の他にタ齋という号を用いたことが知られ。そのタ齋という号は明治3年に催された曲水の宴の記録『衆楽雅藻』にもある。
そこには『永田善教。字子誠・号タ齋・称幸平』とあるのがそれである。
なお、岸田吟香が永田幸平に師事した場所に関しては記録がなく、その私塾であった可能性も捨てきれない。
次に師として名があるのは上原存軒である、上原存軒は幕末の学者で津山藩士。名は、通称彦太夫、号を存軒のち西郊という。
江戸で古賀?庵に学び、のち、家を継ぎ大目付などを歴任している。
広瀬台山の異母弟上原簡貴斎の孫にあたる。

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津山藩教諭場絵図(津山郷土博物館蔵)

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津山藩教諭場跡(小性町、堺町に接す)

 八木家について

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八木掃守先生の記念碑(旧久米郡久米町中北上磯尾字高砂)

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記念碑 側面

<八木家>(岡山県津山市南新座)
坪井下村安藤善一宅で2年間ほど過ごした吟香は14歳頃(1847)津山に出てさらに学問を深めることになる。
津山では八木家でも世話になったと言われている。
明治3年(1870)から明治5年(1872)八木掃守(正春)が高砂館を開き漢籍を講じた。
(生徒数20名)
明治23年(1890)7月13日没。享年75
明治41年(1908)門人が建立した。
『大井西村誌』には「明治元年中北上磯尾に高砂館を開いて漢学を講じ多くの門人があった。
妻子に先立たれ難波徳一を養って嗣とした。明治5年閉鎖された。明治二十三年歿す年75」とある。
八木掃守氏は津山藩士で諱は正春納と号した。
下の額はその縁で明治30年(1897)吟香が帰省した時書いたと思われる。
「 体が軽やかに感じられる人は充実した元気な人生を送る事ができる」という人生訓である。

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八木家 書

 光元家と吟香

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元 光元家(現在は江原氏宅)

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光元武雄の墓

<光元家>(岡山県久米郡久米南町別所104番地)
吟香が大瀬昆から坪井、津山、大阪、そして江戸へ出るに際して、両親は彼が長男であるため「江戸になど行かさぬ」と強く反対していた。
それを説得して江戸に行くことを叶えさせたのは、吟香の伯母寿(ひさし)の嫁ぎ先の久米郡久米南町別所の光元家であった。
吟香はその時の恩を忘れず、東京日日新聞や精リ水を送ってきたり、光元家の東伯(戸長)や義謙を東京に招いて、伊藤博文と会食したりしたそうである。
また、吟香が22歳ごろ病気のため帰省して、約1年間養生しているが大半は光元家ですごしたとも言われている。
光元家の墓所には、吟香が明治37年に光元彌兵衛當孝の墓誌を書いている。
光元武雄(楽善堂上海支店長)の墓誌は岸田太郎(吟香の弟、岸田助三の子)が書いていることから深い結びつきが感じられる。

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光元彌兵衛當孝の墓誌

<光元彌兵衛當孝の墓誌>
「君の名は當孝、字名は彌兵衛、父は義詮、母は渡辺家から来ており文化7年(1810)に生まれ、18歳で家を継ぎ別所村のためによく働いた。
すなわち、別所村里正の他近隣三か村の里正も兼ねた。
維新後は川口村の里正となりさらにこの別所村の戸長となり前後49年間村政にすぐれた功績があった。
明治15年11月8日73歳で逝去した。前妻は八木家からきており1男3女をもうけた。
後妻は平井家からきており5人の女子をもうけた。
そして、長男義信が家督を継いだ。
」 明治37年4月、勲六等、岸田吟香が墓誌を書いた。
吟香が逝去したのは、明治38年6月7日73歳であるから、墓誌を書いたのは逝去の前年である。

難波家との関わり

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利助と小芳の夫婦墓   梅の墓

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肖像写真 裏面

<難波家>(岡山県津山市中北上(磯尾1629番地)
難波家には吟香の妹小芳(およし)が万延元年(1860)難波利助に嫁いで2人の子をなしているが、29歳で早世したため後妻に梅(おうめ)が入っている。
小芳:明治8年(1875)2月9日没 享年29歳
梅:昭和12年(1937)1月30日没 享年85歳
吟香は明治5 年(1872)5 月3日と明治30年(1897)12月に帰省した際には難波家に泊まっている。

◆吟香と勝子(妻)の肖像写真の裏に お梅に興ふ 兄岸田吟香 年 六十五歳 明治三十年十二月十七日朝作州磯尾、難波宅二テとある。
吟香が明治30年(1897)に帰省したとき、磯尾の難波家で書いたものである。
横約7cm、縦11cm
さらに、明治30年65歳の吟香が難波家のために書いた掛け軸がある。
書の意味:ちょっとした良からぬ事をすると世間のおきてを犯す事になり、天地の和を乱す。
また、ちょっとしたことで子孫に禍をおこす人がいるので、こころして生活しなさい。

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掛け軸

吟香と親交のあった作州人

<白岩龍平(しらいわ りょうへい)>(岡山県美作市宮本149番地)
大東汽船の経営を手がけるなどした実業家、吟香は監査役を務めるなど交流は深い。
また、吟香らと東西同文会の設立にも関わった。
吟香の葬儀の際経歴を朗読したり、吟香が従六位を受けるのに桂総理を訪れるなどして尽力した。
龍平の日記に吟香と会った事がしばしば書かれている。
渋沢栄一、西園寺公望などとの交流も深く、盟友荒尾精の死を悼んで、日記をつけ始めたといわれている。

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白岩龍平(1870〜1942)

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「春 長 楽 里 仁」 元旦 戊戌 岸田吟香の書  六十六 明治32年(1899)

<仁木永祐(にき えいすけ)>
天保元年生まれ 明治35年9 月没『吟香日記』の明治24年1 月19日(1891)にある。
仁木・栄来ル、作州の旧友なれど殆ど40年ほど逢ハず、依て炉に榾 を焚きながら往時を語りつゝ夜ふけまで咄して別る。
その同クの友人と、40年ぶりに会ったという事実である。
吟香は、この旧友の姓が「にき」であることを覚えていたが、その字を忘れている。
「仁木」と書き、名の方はやっと「祐」の字がつくことを思い出して「・祐」と書いている。いかにも40年ぶりで会った友といった感じである。
仁木永祐は岸田吟香より2歳の年長、永田孝平の門下。江戸の昌谷精渓にも学んでいる。万延2年(1862)2 月に30歳のとき籾山村・籾山校を興し、漢籍と医法を教えて、学ぶものが雲集したという。

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仁木永祐(1830?1903)

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籾山校跡 

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明治24年(1891)1月6日
付で吟香が永祐に出した賀状

津山での関わり 1

<善応寺>(岡山県津山市大篠1674番地)
吟香は(1847〜1852)頃までここで私塾を開き地元の青年に四書五経(儒学の基本書)などを教えたといわれている。

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善応寺 説明板

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善応寺 正面
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善応寺 本堂

<下山家>(岡山県津山市下高倉西950番地)
下山一の和壽禮那具淺の記録から
【母屋の建築】
仙助 万延元年(1860)に建築、昭和35年 100年目に相当す。
祖父 武十郎(弘化3年生)齢17歳の時、7日目に棟上げ。
大工(棟梁)東本願寺棟梁 高山知加野介の一番弟子『菅田観音堂に日本新聞界の元祖、岸田吟香仮偶の頃哉』吟香27歳 万延元年(1860)この地にいたことを示す資料とも言えるが、今後の研究が待たれる。
この年、万延元年(1860)3月3日井伊大老暗殺、桜田門外の事件がおきている。

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菅田観音堂(下高倉西)
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下山家 書

津山での関わり 2

<森本家(錦屋)>(岡山県津山市伏見町)
北条県になった明治5年(1872)9月にも再び「養蚕は皇国有名の産業であり、当管内でも追々盛大になるようにすべきところ、民情はみな方向を失い、国恩に報い難く、相済まぬことなので、まず有志の者を募り、結社の道が開かれるよう尽力すること」 と勧農世話方に通知している。
当時、養蚕世話方、勧業掛に森本源次郎(伏見町)、西村総雄(美作町)、安藤善一(久米町)らが任命されている。 富岡製糸場が開設され、明治5年(1872)10月には北条県の森本源次郎、番頭で分家の森本百次郎、勧業掛の安藤善一らが富岡に実地見学に赴いた際の道中日記が残されている。
道中日記は明治5年(1872)10月17日の神戸到着から始まっている。人かもしれない)。
【10月17日】神戸宿本町へ入る。同夕方遊女町を見物。夢にも見及ばないほどの盛況の風景である。

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明治5年10月森本源次郎日記

【10月18日】アメリカ船、コスタリカに乗り、4 時出航
【10月20日】6時に横浜へ到着。船宿は小室町の永浜屋多蔵。
吟香対面(岸田吟香に会っている)かたがた見物。異人館には結構で驚いた。
【10月24日】横浜より鉄道車に乗り、江戸(東京)芝へ着く。
(なお、日本の明治5年に東京─ 横浜間に開業したのが最初なので、森本源治郎、同百次郎、安藤善一らは津山で初めて鉄道に乗った人かもしれない)。

<津山銀行>(岡山県津山市伏見町30番地)
北条は明治6年10月(1873)に、津山の有力商人を為替方に任命し、公金取り扱い業務を委任している。
津山における金融制度の第一歩であり、岡山県下で最初に開業した民間銀行である。
明治12年12月25日、津山銀行が設立。初代頭取森本藤吉、株主は設立当初の津山及びその近隣の人々とつながりのある旧津山松平藩主の松平斉民、その子、松平康民(明丸)、関当公をはじめ、学者として箕作麟祥、箕作秋坪、宇田川興斉、新聞界の先覚者で久米郡の出身の岸田吟香がいた。株式は旧藩主一族を中心に、有力商人がもった。

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津山銀行

<岸三省堂>(岡山県津山市本町3丁目)
吟香と交流のあった2代目岸保冶郎(号錦州)は江戸に出て当時印章界の第一人者と言われた葦野楠山(あしのなんざん)に弟子入りして約2年間ほど修行した。
そのとき知りあいとなった岸氏が印章を手がけ、それと引き換えに看板と書を書いてもらった。

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岸三省堂

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書幅と同時期に書いてもらった岸三省堂の看板(額装)

武蔵野旅館

<武蔵野旅館>(岡山県津山市戸川町)
津山市戸川町55番地にあり、石原清氏が経営していて当時としては珍しい3階建ての旅館であった。
吟香が明治5年(1872)5月4日・5日に帰郷した時、武蔵野旅館に泊まっている。
(帰省日記) 明治30年(1897)12月にも泊まっている。
吟香と深い?がりのあった白岩龍平も明治31年(1898)1月9日武蔵野旅館に泊まっている。
大正11年(1922)から神谷印刷所になっている。

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明治時代の武蔵野旅館(岡山県津山市戸川町)

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当時では珍しい三階建て

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現在の神谷印刷所

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武蔵野旅館 室内

恒弘家と吟香

<恒弘家>(岡山県久米郡久米南町下弓削446-2)
恒弘利兵衛は当時の弓削の先進的な文化人として知られており、この地にはじめて人力車を導入したり「七面山御滝」(しちめざんおたき)の開発にも取り組み地域文化向上に尽力した。

『世 済 藥 妙』
書の意味:すぐれた藥で世の人々を健康にして社会をあかるくする。
吟香が明治30年(1897)津山に来たとき書いてもらったそうである。
恒弘家は薬舗を経営している。

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吟香の書

吟香が美甘鶴大郎(作州福渡停車場前)に宛てた手紙で「弓削の恒弘利兵衛殿も相変わら藥を売っていらっしゃいますか。まずはじめによろしく申し上げてください」と書いてある。

岸田吟香顕彰会

岸田吟香を語り継ぐ会

<岸田吟香顕彰会>
昭和26年(1951)10月岡山県津山市に同市長中島琢之を会長とする「岸田吟香顕彰会」が生まれ、記念講演会(講演者杉山栄、木村毅)記念展覧会が行われ、岸田吟香顕彰会により「岸田吟香略伝」(杉山栄)を発刊した。
12月7日には「岸田吟香顕彰会」と吟香の郷里「久米郡垪和村」と共同で記念碑の除幕式が行われた。
この式典には吟香の孫で成美高校(津山高校)在学中の岸田俊彌さんが出席している。
旭川ダム湖畔の栃原公園内の記念碑(碑銘馬場恒吾、碑文杉山栄、書牧馬)さらに平成8年1月10日(1996)胸像除幕式には山崎公民町長や吟香の孫の岸田英彌さん、八重子さん夫妻が東京から出席している。

岸田吟香を語り継ぐ会
岸田吟香記念展覧会出品目録72点

岸田吟香を語り継ぐ会
記念大講演会の記事(S26.10.5 津山朝日新聞掲載)

岸田吟香を語り継ぐ会
岸田吟香を語り継ぐ会
岸田吟香顕彰会趣意書

岸田吟香記念館

岸田吟香を語り継ぐ会
岸田吟香記念館内

<岸田吟香記念館>(岡山県久米郡美咲町西川1001-7)
平成9年(1997)完成 岸田吟香に関する多数の資料を展示している。
平成28年11月25日(2016)岸田吟香のすぐれた研究家杉山栄氏が収集した資料約120点が杉山家から岸田吟香記念館に寄贈され、今後の吟香研究に大いに役立つことが期待される。

岸田吟香を語り継ぐ会
記念館内

岸田吟香を語り継ぐ会
記念館内

  【コラム】全国を黄福にした郷土の偉人 岸田吟香

誰もが一度や二度、また三度、四度はきっと食べたことがある卵かけご飯。そしてどこの家庭でも簡単に味わうことができる卵かけご飯。
美咲町は平成20年1月、合併後間もなく知名度の低かった美咲町を全国にPRしていこうと卵≠観光≠フ目玉に卵かけご飯の店 食堂かめっち。(町第三セクター運営)を試行的にオープンし、はや9年が経ちました。
オープン以来多くのメディアに取り上げられ、また口コミでも広まり黄福定食≠ニ名付けた美咲町の卵かけご飯を目当てに、人口約1万5千人の町に全国から65万人を超えるお客様が訪れています。

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食堂かめっち

美咲町の卵かけご飯が全国的にヒットした理由のひとつとして、卵かけご飯を美咲流の物語にしたことが考えられます。
町内には西日本最大級の養鶏場があり、120万羽のニワトリが毎日100万個のコクとうまみ≠フある卵を産んでいること。
日本棚田百選に選ばれている棚田では、農家が愛情を込めて、手間暇かけて、米作りをしていること。そして何と言っても、美咲町出身の岸田吟香が卵かけご飯をこよなく愛していたということから、物語の主人公にしました。
昭和2年発刊の「江戸生活研究」という雑誌の「明治初期の記者、岸田吟香翁」に翁(吟香)は、毎朝、旅舎の朝飯に箸をつけず、兼ねて用意したのか、左無くば旅舎に云付け鶏卵三、四を取り寄せ食すだけの温飯一度に盛らせて、鶏卵も皆打割り、カバンから焼塩と蕃椒を出し、適宜に振りかけ、鶏卵和にして喰されたものだ。との記載があり、このことから日本で卵かけご飯を常食にしたのは岸田吟香といっても間違いないと思われます。
世界でも生卵を食べる文化は珍しいが、日本でも生で食べるようになったのは明治以降。
卵自体は江戸時代にも食べられていたが、加熱するのが一般的だったようです。吟香は生前、卵かけご飯をこよなく愛した一人といえ、今では手軽で栄養がある朝食の代表的メニューとなっています。
吟香の存在がなかったら、今のように白米を黄福色≠ノ彩色する術を知らずして生きていたかも知れない?? 今も多くの家庭で、卵かけご飯から一日が元気いっぱいに始まり、卵と米で、日本中を黄福=i幸福)にさせた人物は、岸田吟香ではないだろうか??卵かけご飯の取り組みは、美咲町が現在展開する美咲 黄福物語≠フ第一章で「卵かけご飯は町の文化・歴史の詰め合わせ丼」と位置付けています。
3つの町が合併しなければ描けなかった、誕生しなかった美咲流卵かけご飯ストーリー。 豊かな自然や棚田の風景は郷土の誇りです。
米づくりの苦労や山間地ならではのピオーネの栽培、柵原鉱山の坑道跡地を利用した黄ニラづくりや西日本全域に出荷される「卵」。また私たちの大先輩で卵かけご飯をこよなく愛したと伝えられる、明治時代を代表する岸田吟香氏のジャーナリス活動だけに留まらない幅広い活躍や功績等々、数多くの美咲町の自慢≠ェ卵かけご飯には詰まっているのです。

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黄福広場

  明治五年の『帰省日記』〜明治5年(1872)4月23日から5月6日まで〜

廿三曰 これより作州の垪和へハ一日路なれども、備中備前におほく親類あり。
そのかたへまわりてゆかんとて、片山重太郎と伴ひて、人力車にのりて出けるに、次第に雨はげしくなりぬ。
吉備津宮のまへをすぎて山のよこをゆく。ほぐなく備中の國に入りぬ。
こゝにも吉備津の あり。
宮内といふ町をすぎて、板倉といふ驛をとほりゆくに、車の輪土にねバりつきて車すゝまず。このあたり遊女屋おほし。
やうやうにひきゆきて高松といふ所にいたりてやすむ。十二字頃足守につく。小川一ツながれたり。西側に少し町あり。
關東邊のわきみちの山驛ほどなる所なり。
木下氏の邸宅あり。
もとより城ハなし。木下氏ハ東京への住居になりたれハ家もこぼし木もきりてうりけるよし。
この處の河本屋といふ家にて酒のミめしくひて、こゝより駕篤にのりて出ける。川をわたりて重太郎ハ日近にまわりて千升の峠にて出あふべしとてわかれぬ。
それより山間に入る。
けふの雨にて道わるし。
駕籠かきのいふをきけバ、この邊の山に鬼の釜といふ物あり。
さしわたし七尺斗にて、ふかさ四尺、あつさハ四寸ほどなる鐵の釜なり。
これハちいさき方にて鬼の汁鍋なるよしいひつたふ。
釜の方ハむかし阿曾の鋳物師某といふ者、鍋釜に鋳なをして賣るとて打こぼして持歸りしに、馬に七駄半ありしといへり。
さて廣石といふ所に沼本 助とて我從弟あり。人をやりてよび出してあひぬ。
さて叉、K谷にいたる。
こゝハわが母のうまれ玉ひし里なり。
その家ハたかき處にありて城のやうにかまへたり。
その家の下に我弟虎十郎すめり。立よりて、しはらく物かたりしてわかれぬ。
それよりかけ畑といふ所をすぎて、山をのぼりて千升の峠にいたる。
峠の上に小家一ツあり。四方ともに人跡たえたる荒山にて人のすむべきあたりともおもはれぬに、立よりて見れバ六十斗の老くつをれたる翁一人はひ出て、わらんづも侯、酒もありといふ。
かごかきども酒かひてのむ。此翁に妻子ありやといへバ、妻ハミまかりぬ、子ハ大峯へまゐり候といふ。
かゝる所にもすめば都のこゝちすなるべし。片山ハいまだきたらねど、はやけふも四字すぎなり。
雨も叉ふりさうにて雷さへなれバ、こゝにて待ん事いと心もとなし。加茂の方へいそかばやとて北にむかひて山間の細道を下りぬ。次第に雷つよくなりて、雨も車軸をミだしたるが如し。
山を出てはしごの様にちいさき田ある谷間をゆくに、日ハはやくらうなりぬ。
いなづまつよくひかりて雷の音はげしく、頭のうへにおちかゝるこゝちす。
田のほとりの細路をたどりつゝからうして人家ある所にいたりぬ。廣面といふ所なり。
火見ゆる所をたよりて門に加籠かきすゑさせて、ものいへバとしよりたる女の聲す。
雨のやむまでこゝにといへバ内へはいれといふ。入りて見れバ老くづをれたるばゝひとりゐろりに火たきをりけり。
わかきものハなきやといへバ、我子なきゆゑに隣村の者を養子にしたりしが、先月の末に家財どもおほくぬすみとりて、人の妻をつれて、いつくへかにげうせにけり。
ことし七十三にて、めもよくハ見えぬこの老姿が山にいりてかりきたれる柴にて候、たきてあたり玉へといふ。
かこきども、ゐろりのまわりに打よりて柴折くべてあたるに、よハふけゆけど雨ハやまず。雷の音ハ少しをさまりたれど谷川の水、俄にまして音次第にたかし。
これにてハ迚も此深夜に歩行なしかたし。こゝにて一夜をあかさんと米ハありやといへバ壹升ばかり斗て出しぬ。めしをたいてくひて人々そこに打ふしぬ。わらむしろのうへに、きたなげなるふとんをしきて、つゞれなれどせんたくしたるふとん一枚かけてねにけり。くたびれたれバよくねむりぬ。
廿四日 あさ谷川に行て顔あらひて山々を見わたすに、家もすくなき村なり。
老姿にかね少しやりて、こゝをたちいでけるに、ゆべの雨にて谷川の水ましてわたるべからず。
かごよりおりて路もなき田の中、がけのふちなどつたひあるきて十一字ごろやうやう加茂にいたりぬ。
片山の宅にいたりて重太郎に出あひ、昨夜の物うかりしことゞも物かたるに、重太郎は千升の峠にいたりてきけバ、君ハさきにこゝをとほり玉ひぬときゝて坂を下らんとするに、日ハくれ雷ハいたくなりはためきて雨いみしうふりけれハ、坂ハ谷川のやうになりて一あしもすゝまれず、たとひ坂ハおりぬるとも加茂の川に水ましたれバわたるべきすべなしとて、それよりつゝみだといふ山越をして、やうやうけさこの處にかへりつきぬといふ。
湯あミ酒のミなどして、しばらくこゝにてやすむ。
こゝより一里ばかりにて、さらゐのとふ處に我弟元助すみけりとてよびにやる。
二字ごろよりこゝを出けるに、路にて元助にあひて、ともに久しぶりのものかたりして三納谷にゆく。
四字ばかりに石井龜五郎の宅にゆき別來の無事を祝しなどして酒などのミけり。
こよひハこゝにとまれといひけるほどに、しからバとて足守よりつれきたれる加籠かきをバかへしけり。
よる大太郎の宅にゆく。
廿五日 あさ九時頃、三納谷より叉加籠に打のりて、細田、案田などいふ處の山道をのぼりくだりして柿山といふ所を下りて?谷にいたり、旭川をわたれバ美作の國、栃原也。
こゝハ我故郷の入り口なり。あちこちの家々より人々たちいでて無事の歸省を祝しけり。
岸田文太郎の宅にて酒のミて、こゝを出て大瀬毘へといそぎけるに、くるひだといふ所まで舎弟熊次郎、助三その外むかしの友人ども打つとひてむかひにきたりけり。
ほどなく故郷にいたれバ山も川も、むかしのまゝにて、いづれを見ても、なつかしきこゝちす。
舊宅に入れバ老母いとすこやかなるさまにてゐ玉へり。親屬舊友どもおのおの無事の面會を祝して、たがひにうれしなミだにくれにける。
さて、おもてに立出て、そこら打ながむるに、城山の古木のさまなど是までもたびたびゆめにも見けれバ、比度も叉夢にハあらさるかとおもふもことわり也。
およし來る。
よもすがら酒などのミあかして、さわぎのゝしりける。
廿六日 父の墓、祖母の墓にまゐる。
世におはせし時の事おもひいでられて涙にむせびける。
さてミちすがら、こゝそこ打見るに、あすこハ小皃の時なにをしてあそびし、こゝにてハいかにありしなど、むかしをおもひ出られて、草木さへなつかしくおもはる。
けふも内にハ人々あつまりて酒などのみけり。
光元吉太郎、とら來る。
石井大太郎、元助來る。
甘七日 ミやげものを人々にわかつ。ひるから下峯の山にのぼりて見る。
甘八日 川にゆく。
甘九日 けふハもはやかへらんとて、十一字頃、人々にわかれをつげて立いづるに、老母舎弟等ハ勿論、親類舊友ども、いづれもいづれもわかれををしみて袖をしぼらぬハなかりけり。
鳥首にて父の御墓にまゐりて、さて、こゝにて人々にもわかれけり。
たゞ舍弟熊次郎と、てならいともだちの和三郎のミかごのわきに付て、さなま廣信、小山などいふ所を經て鳳字の峠といふ所まで送りて來にけり。
わかれかねて、なきけるもあわれなりや。
こゝまでハ凡二里ほどもあるべし。
けふハ坪井までゆくなり。
妹およしハ我にともなふて磯尾へかへりけり。
おともといふ皃、道にてなく。
八 といふ所をすぎて桑村にいたり、西に入りて公千といふ所をへて長谷に出で、ひのくれがたに、やうやう坪井にいたる。
安藤善一に久しぶりにてあふ。河原恒太郎もたづね來る。
三十日 終日、ものがたりして酒などのみつゝくらし、福本貫一、久山熊太郎來る。詩をかく。
くれに磯尾にゆく。十二年前に妹およし、比磯尾の難波利助かたへ縁付きしなり。
今、子ふたりあり。
父ハ森之助といふ。我ハ今夜はじめて來たれり。
酒のミて、よふけまでものかたりしてわかれぬ。
朔 十字頃、河原恒太郎方にゆく。
けふ日食なり。幸助來る。
三字すぎより總谷という處へ銅山を見にゆく。
挑色の百合花を見て人をたのんでほる。あづまへもちかへらんとてなり。それより叉坪井上村の緑礬山をも見にゆく。
日くれてかへる。
舎弟萬三郎來る。ともに養蠶、牧牛の事を談ず。
二日 朝とく善一、津山へゆく。にハとりをころして肴となし酒をのむ。難波より鯉をくれる。
詩をかく。三日 けふ、くもる。善一よりのたよりをまつに、さらに沙汰なし。けふも字をかく。
片山重太郎と木屋傳吉への出 を認めて、萬三郎に托す。
はんがたに磯尾へいてとまる。いろいろちそうあり。
四日 雨ふる。けふハ津山の方へおもむかんとて、あさよりしたくをして、安藤の宅へゆき、わかれをつげて、磯尾へゆきたりしに、善一、今かへりたりとて、よびにきたる。
依て再、安藤にゆき養蠶、牧牛の事など相談をして、叉、磯尾にきたり酒のミめしくひて人々にわかれをつげて、かごに打のり出けるに、およし、おいそ、利助、おとも、萬三郎其外とも五六丁斗もおくりて出けり。
久米の村中すかをへて院の庄にいたる。
こゝに備後三郎高徳が故跡あり。そこに近來、をたてたりとて道より見ゆ。
久米のさら山も川の南に見ゆ。さて二宮の松原をすぎて津山に入りぬ。
城郭ハ元のごとくにて天守ハたかく天にそびへたれども、人民ハ非なり。
ほとんど丁令威が叉歸來りしこゝちぞすなる。
戸川町のむさしやといふ旅亭にとまる。よる塘芳艸來る。
五日 あさ、北条縣の大屬興津某の處にゆく。
養蠶、牧牛、その他、此國の物産を仕立る 事をいろいろ説諭す。酒をのむ。
横濱へ郵便にて手紙をやる。西新町江見屋にゆく。
おもひかけなく久しぶりにてあひたれバ、顔を見わすれたりとておどろく。
さて舊友ども打あつまり酒などのミけり。
定吉ことし二十五になるといふ。六七才の時わかれたれバ、かほかたちも見ちがへけり。
それよりどてへ出て、おひまわしといふ所をとほるに芝居などあり。堺町にゆきて、いかだやにゆくに、これも久しぶりなれバとて酒を出す。
主人は直平とて、むかしわかれし時ハ十七八にてありしが、今ハはや十四五にもなる娘あり。
むすこも二三人あり。
くれがたにむさしやにかへれバ安藤善一もきたれり。
塘芳もきてゐて、よふけまで酒のミけり。備後三郎の 本をくれる。
六日 雨ふる。安藤と物産の事を談じ、商 を定むる事を談ず。(終)

円地与四松「吟香の帰省日記について」(社会及国家 第235号 1935)『帰省日記』

塘芳艸:明治2 年(1869)10 月1 日11 等被召 海老原極人長屋 塘芳蔵 芳蔵・芳一茂太郎。字は土蘭、号雲田、通称芳蔵、天保8 年(1837)津山町嵯峨屋の三男。勤王の志厚く慶応3年(1867)7月「中山神社奉納文庫勧進」を行う。
明治4年(1871)7月「院庄造立神社之事趣」にも署名。
明治2年(1869)藩士となり、5年(1872)1月開庁の北条県庶務課少属(12 等)。
明治5 年(1872)10月「愛山神道碑文」出版物の墓城図を描いている。画は飯塚竹齋に学びのち田碕草雲に従う。
明治12年(1879)の「岡山県人物誌 全」に「書・南画・塘芳・田町」と記されている。
明治12年(1879)死去、45 歳(明治5年(1872)吟香37 歳 塘芳艸33 歳)
武蔵野旅館:戸川町55 番地 石原清吉 電話二六番【明治四十四年発行 津山案内広告商工人名記録】大正11 年(1936)現在の神谷印刷所の場所
興津實:元鶴田藩、藩士時代、首席家老尾関当遵が京都の本國寺で切腹した際にその介錯をした。文武両道にすぐれた人側御用人、明治5年(1872)1 月廃藩置県北条庶務出納主任に明治6年(1873)の血税一揆の際は大いに治安の為に活躍し、後、権参亊となり、更に長野県・新潟県等の内務官僚として才能を発揮した
筏 屋:正平33 歳 家族6 人 (明治5 年(1872) 吟香39 歳 正平35 歳)
江見屋:定吉23 歳 母43 歳  (明治5 年(1872)吟香39 歳 定吉25 歳)【明治三年 堺町人別改帳】(津山郷土博物館蔵)【明治三年 西新町人別改帳】(津山郷土博物館蔵)

岸田吟香を語り継ぐ会
【明治三年 堺町人別改帳】(津山郷土博物館蔵)

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  あとがき

岸田吟香とふるさと作州との結びつきを求めて、関連のある方々を訪ねて取材させていただいた。
わざわざ親戚の人たちにお集まりいただいたり、写真や額などをみせていただいたり、墓所に案内していただいた。
書の解読、吟香が帰省した時のエピソード、吟香との関わりの話など私たちのわがままな求めに快く対応していただいた。
一度と言わず何回も訪問させていただいた。
今回ようやくこのような冊子をまとめることが出来た。
本当にありがたいことである。
この調査で吟香がこの地作州の人々と深く結びつきながら、あのような偉業を成し遂げたことを実感した。
この冊子は、素人が足で稼いだほんの一部の案件に触れただけの不十分な物であり、これを契機にしてさらに多くの掘りおこしをしたいものである。
新しい情報があればご連絡いただき、また誤りがあれば色々ご教示いただきたいと考えている。

岸田吟香を語る会、草地 浩典・甲元 正美

【参考文献】
●杉浦正著「岸田吟香―資料からみたその一生」(1996)
●杉山栄著「先駆著、岸田吟香」岸田吟香顕彰会刊行会(1952)
●杉山栄 「岸田吟香略伝」岸田吟香顕彰会(1951)
●草地保ほか編「岸田吟香」旭町教育委員会(1989)
●衛藤瀋吉「衛藤瀋吉著作集」第7 巻
●昭和女子大学近代文学研究室「近代文学研究室」(1972)
●若山甲蔵「岸田吟香翁」(1925)
●土師清二「吟香素描」(1959)
●小林弘忠「浮世はままよ 岸田吟香ものがたり」(2000)
●津山洋学資料館「美作に残る岸田吟香の足跡、坪井の安藤家資料を中心に」(2007)
●吟香が仁木永祐に出した賀状(1920)
●豊田市郷土資料館 「明治の傑人岸田吟香」(2012)
●竹内佑宜「作州津山維新事情」(2005)
●大阪市立美術館「生誕120 周年記念岸田劉生展」(2011)
●岸田尚(たか)「日々はすぎて、Days went by」(2002)
●岸田麗子「父、岸田劉生」(1952)
●ジョセフヒコ記念会誌(第6号)『上海楽善堂の思い出』(1975)
●山陽新聞社編「岡山県歴史人物事典」(1994)
●毎日新聞社「岸田吟香・劉生・麗子」(1962)
●美作学園75 周年記念誌(1992)
●円地与四松 「帰省日記」「社会及国家」第235 号(1935)
●中村義「白岩龍平日記」
●津山郷土博物館 「明治3 年西新町・堺町人別改帳」
●津山城正面写真 堺町絵図 「津山案内記」明治44 年発行 広告掲載
●津山歴史民俗館 「津山銀行株式」「銀行設立主意口述書」津山市史参照
●「富岡製紙工場視察の道中日記」岡山県史稿本・津山市史参照
●津山朝日新聞社 岸田吟香顕彰会、記念大講演会掲載
●津山朝日新聞社 小谷善守著「出雲街道」第3 巻・第6 巻・第7 巻・第9 巻
●津山朝日新聞社 作州からみた明治100 年
●津山朝日新聞『洋学礼賛』下山純正(2014.2.27 掲載)
●津山朝日新聞『歴史あれこれ』竹内祐宜(2015.6.11 掲載)
●岸田吟香記念館 展示資料
●津山洋学資料館 資料
●津山郷土博物館 資料

  岸田吟香の紹介

岸田吟香(1833〜1905)
岡山県久米郡美咲町栃原(旧挙母藩)久米北条郡中垪和谷村大字大瀬昆1684番地
天保4年(1833)4月8日生まれ
天保9年(1837)久米北条郡中垪和畝村の宝寿寺の住職が開いていた寺子屋で学ぶ。
〜坪井へ〜
弘化2年(1845)12歳
岡山県津山市坪井下(旧挙母藩)坪井下村1793 番地
安藤家に学僕として2年間過ごした。
吟香がお世話になった当主の安藤善一が学問の道に進ませた。
〜津山へ〜
嘉永元年(1847)14歳
岡山県津山市(旧津山藩)津山市南新座93番地に出て八木家にお世話になった。
津山では永田孝平、上原存軒に師事して漢学を学び、矢吹正則に剣術を学んだ。
吟香は、善応寺(津山市大篠1674番地)で私塾を開き、村の青年たちに四書五経などを教えた。
明治5年吟香が作州に帰省した際、塘芳艸、興津實、津山市西新町江見屋定吉、津山市堺町筏屋(いかだや)伝助などに会っており、津山での深いつながりが感じられる。
〜江戸へ〜
嘉永5年(1852)19歳 
江戸に出て、津山藩儒昌谷精溪の門に入り、林図書頭の塾に学ぶ。
米国宣教師へップパ―ン(通称ヘボン)を助け「和英語林集成」を編集。
元治元年(1864)、わが国最初の邦字新聞「海外新聞」を創刊。
明治6年(1873)に東京日日新聞に入り記者、編集者として手腕を発揮。
翌年の台湾出兵に際しては国内初の従軍記者として現地から生々しい記事を送り、人々に新聞の使命を認識させた。
雑報記事の名手といわれ、明快、平易な文章で庶民をひきつけた。
その傍ら、目薬の製造販売や航路開発、わが国最初の目や耳が不自由な子供たちが学ぶ「訓育院」を創設するなど活動した。

岡山県北情報掲示板 mail:info@owow.jp