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出雲街道 旧箕作阮甫宅

○○○○ 箕作阮甫は、箕作貞固(三代丈庵)の第三子として、寛政11年(1799)9月7日この地に生まれた。箕作家は、近江源氏佐々木の族といわれ、室町時代六角承禎の父定頼が、近江国箕作城(現在の滋賀県五個荘町)に住んで箕作を称しました。
その後箕作家は、戦乱の変遷を経て美作の国に来て英田郡楢原村に住みました、阮甫の四世前の祖義林は、津山に出て、森長継に仕えましたた。
箕作家で最初に医業を営んだのは、阮甫の曾祖父定辨(初代丈庵)で西新町に住んでいました。
父貞固(三代丈庵)が、天明2年(1782)10月24日津山松平藩の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられました。父、兄の没後、文化9年(1812)、この西新町から戸川町に移り住みました。
この旧宅は、明治から大正年代にかけて、鍛冶屋、豆腐屋などに使用されていましたが、昭和9年(1934)津山市教育会が顕彰のため木柱を建て、ついで昭和17年(1942)に津山市に買収されました。
この宅は洋学者箕作阮甫が生まれ少年期を過ごした生家であり、その人格形成と活躍の素地に大きく影響を与えた場所として、史跡として指定されました。
◆ 津山市西新町6 (0868)31-1346 入館時間 9:30〜16:30 料金無料 休館日/月曜日(月曜日が祝祭日の時は木曜日が振替休日)

○○○○ 箕作阮甫
江戸時代後期の蘭方医、洋学者で名は虔儒、字は痒西、柴川と号した。寛政11年(1799)9月、津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の三男としてこの地に生まれた。幼少期、藩の永田桐陰・小島天楽から儒学を学び、文化13年(1816)には京都に出て、竹中文輔のもとで三箇年間医術を習得した。文政6年(1823)、藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真(榛斎)の門に入り、蘭学の習得に努めた。以後、学問研究のため三年間江戸詰の許可を得た。いったん津山に帰ったが、天保2年(1831)以後は家族とともに江戸に住んだ。
天保10年(1839)、幕府天文台に出役し、「藩書和解御用」を命ぜられた。嘉永6年(1853)アメリカ合衆国使節ペリ―来航時の外交文書の翻訳にあたった。また同じ年、ロシア使節プチャ―チンが長崎に来航した際は、筒井政憲・川路聖謨について長崎に行き、外交書簡の翻訳に携わった。安政2年(1855)3月隠居し、家督を秋坪に譲ったが、安政3年(1856)蕃書調所教授職となり、文久2年(1862)には、幕府の旗本に取り立てられた。
文久3年(1863)6月17日、江戸湯島天神下で没しました。享年65歳、幕末の混乱に生きた箕作阮甫、阮甫没後6年で明治になります。

阮甫旧宅内部 <箕作阮甫旧宅の隣が洋学資料館です>

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箕作阮甫長崎に往、(洋学資料館)
阮甫が出会った人・もの・文化 1853年〈嘉永6) 津山藩医の箕作阮甫は、幕府の対ロシシア交渉使節に従って長崎ヘ赴きました。 その旅の間に記された日記『西征紀行』には、道中に出会った人や文化、そして阮甫の考えが生き生きと記されています。 今回の報告会では、この『西征紀行』の記述から、阮甫の知られざる一面を紹介されました。

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@阮甫が出会った長崎グルメ 阮甫をうならせた長崎での料理
館長 小坂田 裕造

○○○○ A阮甫が見た出島阮甫が目にした出島の姿とは?
学芸員 田中 美穂

○○○○ B阮甫の関心、〜これより楽しきはなし〜阮甫が旅行中に楽しみにしていたこととは....?
次長(学芸員) 乾 康二

ペリー来航絵巻「金海奇観」をめぐる人々とその思い....鍬形赤子、箕作阮甫、箕作秋坪、宇田川興斎....
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